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父のこと①
先日、74歳の父が余命1ヶ月と医師に告げられた。
父は3年半ほど前から難病と肺がんと戦っている。
父は弱音を吐かない人だった。いつも冗談でごまかして、周りに心配をかけないように、というより、自分が痛がったり苦しんだりする姿を見せるのが恥ずかしいと思っていたように思う。
私はなんだかんだ思うところはあるけれど、父が好きだった。
小学生の頃、地域のスポーツ少年団に所属して、毎日バレーボールの厳しい練習を耐えてきた。あの頃は、罵られたり、叩かれたりすることはよくあって、でも、実際にチームは強くなれたし、仲間との絆も深かった。実際、練習が終わると、指導してくださる先生は、本当に優しい表情や口調で私たちに声をかけてくれていた。
そこには、私たちを強くしたいと思う指導者の想いも見られたからか、父もその他の保護者も、子どもたちが叩かれても、ボールを投げらつけられても、指導者に苦言をいうことは一切なかった。エースを任されていた私が試合当日に体調を崩してコートで嘔吐した時も、先生は私をメンバーから外さず試合が続けられた時も、両親は何も言わず、ただ、コートにビデオカメラを向け続けた。
父は、ビデオカメラで試合を撮り、帰宅するとすぐにビデオカメラをテレビに繋いで、どこが悪かった、ここが悪かったと指摘した。
毎朝・夕、自宅から2~3kmの距離を兄妹走らされた。
色々な地域のロードレースに参加した時は、必ず自分よりも上の学年のレースをエントリーされていた。
父に怒られた記憶はあるけれど、褒められた記憶はほとんどない。
それでも、私は父が好きだった。
どうしてこんなに厳しい人なのに、嫌いになれないのか、当時は不思議だったが、今思うとそれは、やはり父は母や子どもたちを愛していたからだと思う。
高校は、地元ではなく、実家から離れた進学校に行くことを許してくれた。
大きな台風の中、下宿先まで様子を見るために車を運転してくれた。
妹が授かり婚で実家を離れることになった時も、地団駄をふんで騒ぐ母を父は静かにいさめて、相手の話を聞いた。
私が離婚を決意したときも、世間体を気にして私を説得しようとする母をよそに、「子どもはちゃんと育てられるのか?」と一言だけ確認して、私の選択を受け入れてくれた。
小さい頃の厳しかった教育が、私たち兄妹の体も心も強くしてくれた。
父が私の父でよかった。
お父さん、もう少し、そばにいさせてね。