誰もいない ここには私一人きりで

本日、ツイッター(X)の方で創作漫画の最新話を公開した。
いいねやリツイート、感想、一つ一つの反応が嬉しくてありがたくてたまらない。
だがその一方で、「前回よりも反応が少ない」とかそんな小さなことで不安になってしまう自分がいて、弱ってしまう。これに関しては連載当初からずっとそう。数目的や数重視では決してないのに、振り回されてどうにもしんどい。どないかならんかよ。

今日はせっかく創作漫画を更新したことだし、創作の話でもしようと思う。
備忘録も兼ねて、当方のやり方や考え方をまとめていく。
多分長くなる。全部読まなくていいよ。

これまでの経歴

自己紹介の記事でもさらっと言ったが、「創作」の筆を握るのは小学生ぶりである。
ここで言う「創作」とは、オリジナルキャラクター・ストーリー・設定の三本柱が揃うものとする。
小学生から中学生にかけて、「創作」小説を書いてクラスメイトに発表するなどしていた。
物語を考えることは好きだったので、調子に乗ってどんどん書いて発表していたら、ある時それをバカにする言動に晒された。
すっかり心を折られ、ちょうど書いていたシリーズものも区切りがついていたので、もう創作小説を書くのはやめることにした。

そして中学生以降は、クラスメイトの似顔絵を描いてクラスに居場所を得ていた。
そうでもしなければ、友達の一人も作れなかったと思う。
思えばあの頃から不適応だった。
似顔絵から次第に派生してクラスメイトをネタにした漫画も描き始めた。
「知っている人」のあんなエピソードやこんなエピソードというのは、結構ウケるものでクラスメイトたちは(あくまで比較的に)好意的にとらえてくれていたように思う。
魔法や超能力パロといったものもこの時たくさん考えていた。

高校生になると一切の創作(絵や漫画を描くこと)は禁じられた。
しかし禁じられるとやりたくなるというのが通例だ。あの頃はさながら隠れキリシタンのようにして、今度は部活メンバーの似顔絵やネタ漫画などを描いていた。

大学に入ってもそのムーブは続いた。
高校時代よりかは自由になったので、サークルの仲間をネタにした漫画を描いた。
これは多分初めての長編漫画?で、240ページを全て授業中の時間で描き切った(授業聞けよという突っ込みはここでは無視する)。
今描いている「りつなな」も、もとはと言えばサークルの仲間がモデルなのである。

さて、ここまで来て、ふと思う。
自分は、「創作」が趣味だと思っていた。でも、それは違った。
今まで描いていたものは全部、実在の人物を元にしたパロディ的なストーリーでしかない。
自分は何もかも一から創作していたつもりでいて、全くそうではなかった。
そのことに気が付いた時、愕然とした。
長い間温めていた「りつなな」でさえも、サークルの仲間がモデルで自分で一から作り上げたわけではない…。
この「りつなな」を、どうにか「創作」に昇華させなければ、「りつなな」に未来はない。
そう思った時が「cobalt」の第一歩だった。

現在のやり方

現在、月に1回、1話につき16ページずつの更新としている。
これは、ツイッターに載せる時のことを考えた時、4ツリー分くらいが一度に読めるちょうどいい分量なのではないかと考えたからだ。
3ツリーでは短く、5ツリーではちょっと長い。
長編になるので、1話ごとに無理なく追えるページ数がいいだろう。
それを思い現在もこの分量とペースを続けている。
この安定した「枠」が、読者も作者も守る安全基地になると考えている。

漫画の作り方としてはまずプロットの段階として、ノートに見開き2ページで各話のストーリーの流れをメモしていく。
長編連載としても各話ごとに起承転結がなければならないと考えているので、まず話の軸を簡単にメモし、大方のページ数を割り振り、軸をもとにどんな内容や場面を描いていくかを詳しくメモする。
これに沿って漫画を描いていくわけだが、キャラたちのふるまいによって内容は前後左右するため、全くこの通りになるわけではない。
プロットを参考にしながら下描き→ペン入れ→ベタ入れ→文字入れと進めていく。
人によってはネームを描いてから下描きに入る人もいるだろうしそれをした方が絶対にいいだろうけど、ネームを描いていては間に合わないため、下描きの段階で調整していく。
また例外はあるが、基本的にスクリーントーンは使わない。だって高いじゃん?あれ。それに死ぬほど種類があるので、どれを使ったらよいか迷ってしまう。迷っていてはもちろん間に合わないため、セリアのマーカー6色と黒サインペンその他でササッとベタ入れを済ませている。

こんな風にして、1話につき16日で完成させて漫画をアップしている。
ちなみに全部アナログで描いている。デジタルなんて覚えている暇今更ねえんだ、中年なめんなよ。

信念

「どこにでもいそうな」「居酒屋の隣席で、学校の同じ授業で、マンションの同じ階で、もしかしたら会えそうな」”普通”の人たちが織り成す話を描いていきたい。
特別な能力などなく、かといって特別なハンデがあるわけでもない。
そんな標準正規分布でいうところの68%の範囲内にいる人たちが、悩み苦しみ這いつくばって曇天のような日々を過ごす中で、一筋の光明を見出すような、そんな話が描きたい。
「普通」が一番難しくて尊いことだから、それを生きる人々の愛しさを描いていきたいと思っている。
わかりやすくハンデの要素を取り入れてもよかったが、なまじ実際にハンデのある人たちの姿を少しは知っているばかりに、迂闊に取り上げられないと思いやめた。
そもそも、大なり小なりハンデというものは皆抱えているものだ。

「cobalt」の意義

「cobalt」にテーマがあるとするならば「(広義での)愛」「孤独」「人生」などになると思うが、自分としては以前も言った通り、「遺書」のつもりで描いている。
これに関しては賛否分かれると思うが、「遺書」なので、「cobalt」が終わればもうそこで自分の人生も終わりになる。と現在のところは思いながら描いている。俺が死んだ時この漫画が産声を上げるのである。

人には様々な孤独感があると思う。生きていればそれらから逃れることはできない。
自分の場合は、「傍観者としての」孤独が強い。
幼少の頃からずっと「傍観者」で、「当事者」になったことがほとんどない。誰かと一緒に我を忘れて何かに熱中したり熱狂したりということがあまりなく、ずっと一歩引いて冷めた場所からただ見ているだけというのがほとんどだった。
そんな幼少から続く「傍観者」としての悲しみと寂しみが、緩急も凹凸もない平坦なその道が、ただのっぺりとそこに広がっているだけでそれ以外に何もない。共有する者もない。
本当は、誰かと何かを共有して熱狂したかった。
それにずっと焦がれていた。
だけどそれも叶わぬまま、今日という日まで生きてきてしまいより孤独は深まった。
この月日は自分には十分「永遠」だった。

だから「cobalt」を描き始めた。
自分が「当事者」として、今まであまりしてこれなかったことを全てここに込めることを誓った。
せめて創作の中だけででも、その「孤独」が癒えますように、と、
せめてこの物語が誰かの心に残って、それが自分が「当事者」として生きた証になりますように、と。

これから先も、「当事者」になんてなれないだろう。
ずっと独りでもがくことになるだろう。
「cobalt」は孤独に苦しみ続けた自分の墓標であり、そして独りで生きていくことの誓いの証である。
「当事者」への憧れや希望は、全てこの過ぎ去る物語の中に置いてゆこう。

せめて 歌を 遠くへ。




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