「気候危機を通して、私が見た社会」
今回は気候危機を記憶する発進型ムーブメントrecord1.5の共同代表をされている山本大貴さんに寄稿をしていただきました!現在、2022年11月6日から始まるCOP27へ参加し、気候危機を発信する活動に精力を注がれています!山本さんがどうして環境問題に興味を持つようになったのか?未来を作る世代の一人として、そして何よりも地球を愛する1人としての、環境問題に対する想いをご一読ください!(編集者:中村)
「気候危機を通じて、わたしが見た社会」
こんにちは!大学1年、Climate Activist(気候アクティビスト)、東京生まれ東京育ちの山本大貴です。周りからはよく、やまだいと呼ばれています。今回は、自由につらつらと書いていいとのことなので、取り留めのない感じになるかもしれないです。それも、リアルということで、書いてみようと思います。
2003年8月9日に誕生、東京都調布市在住。昔から自然科学が大好きで、知的好奇心の塊で、何かに打ち込むと120%の力を注ぐ気質でした。虫をたくさん飼って観察したり、相対性理論や量子力学にのめり込んでアインシュタインに憧れたり。中学校にあがると、集団社会でリーダーシップをとるようになり、生徒会に入ってイベントを企画したり、高校では文化祭に昼夜打ち込む...。そして高校1年生の秋に台風の災害ボランティアに行き、気象災害の壮絶な現場を見たことをきっかけに、高校2年生になる4月、気候ムーブメントに参加しました。活動を通し、知らなかった世界を知り、社会の在り方を考えるようになり、環境アクティビストとしての山本大貴へ。
しかし、私がこうやってアクティブで在り続けられるのは、私が元々持っている性質というよりも、それを支える環境があってこそだということに気付きました。私は、おそらくこの社会において特権を多く持っている人間です。明日への心配事は少ないし、学校には不自由なく行けて、いつも安心して自分の好きなことができる生活を送ってきました。東京という大都会で育ち、世界や社会と繋がる機会もたくさんあります。
最近、大学で歴史社会学や政治哲学を学ぶ中で、そうした特権構造が生み出す社会の分断に気付くようになりました。能力主義的で「常に上を目指す」ということが良いとされる社会規範の中で、上にいるものと下にいるものが生まれ、分断が生じる。経済的な格差以外にも、ジェンダーや職業、学歴、住んでいる地域など様々な社会的ステータスによる違いは、ただの「差異」から「特権」に変わり、私たちを対話から遠ざけています。気候変動問題がなぜ議論されないのか、なぜ意識にこれまでの差が生まれるのか。それは、見えている景色、社会に対して抱く感情が、一人一人全然違うからではないだろうか、と。
気候危機は、たしかに全ての人にとっての問題です。街中でスタンディングアクションをするとき、「みんなの未来、私たちの未来が危ない」と何度も繰り返してきました。しかし、当事者性はみんな一様ではありません。「わたし」を「あなた」に押し付けることはできないのです。みんな、という主語を解きほぐしていく作業が必要ではないかと考えるようになりました。気候危機、特にエネルギー問題の議論は、火力も原発も再エネも、なぜか未だにイメージで語る人が多いという現状があります。ここには、そもそも対話の土台がない、そして差し迫る脅威としての危機感が共有されていないという要因があるのではないだろうかと感じます。
【気候危機の現状】
パリ協定の努力目標であり、2021年にイギリスのグラスゴーで開催されたCOP26(気候変動枠組み条約締約国会議)でその重要性が再認識された「1.5℃目標」。産業革命前からの地球の平均気温上昇を1.5℃以下に抑える、というものです。1.5℃を超えると、地球上の多くのシステムがティッピングポイント(臨界点)を迎えると言われています。これは、一定程度まで気温上昇が進むと、その後の上昇に歯止めがかからなくなるかもしれない点です。例えば、シベリアの永久凍土が解けると、閉じ込められていた大量の温室効果ガス(メタンやCO₂など)が大気中に放出されることで、さらに気温上昇に拍車をかけてしまうといった具合です。ティッピングポイントは、グリーンランドの氷の融解など、このポイントは地球上に数多く存在していると言われています。そして現在、気温上昇は1.09℃に達しています。あとどれだけの温室効果ガスを排出すると1.5℃に到達するか、という限界量、いわゆる「炭素予算」と、現在の世界の排出ペースをもとに考えると、2030年前後でカウントダウンの数字が0になってしまうことが分かっています。気候危機にはタイムリミットがあり、今すぐ行動に移さなければ手遅れになってしまうのです。
気候変動対策は、30年ほど前から議論がなされてきました。1997年には京都議定書がCOP3で採択され、各国、特に先進国は排出削減の義務を負っていました。しかし、その成果はほとんどなかったと言っていいのではないでしょうか。この数十年は、なんだったのか。時間があっても進まなかった理由はなんだろうか。ここから考えなければ、この先の未来も見えないと考えています。
最も大きいのは、産業による反発です。排出責任を負っている産業の多くは、日本でいえば高度経済成長を支えてきた大企業、農業大国であれば畜産業など、いずれもその経済力や影響力の大きいセクターです。彼らが政治にロビー活動をすることにより、利益誘導がおこなわれ、排出削減が遅れてしまうのです。また、例えば再生可能エネルギーを考えるときに、「気候変動対策として」というよりも「ビジネスの成長分野」であることが重要で、ついでに脱炭素もできるよねという感覚で語られがちです。また、グリーンであることが企業活動のイメージアップに繋がるという発想から、CMなどで「エコ」や「サステナブル」という言葉が多用されているように感じます。ここでは、それが本当に削減効果があるか、という問題は後回しになってしまいがちです。ちなみに、日本では最大の温室効果ガスの排出源である石炭火力発電を、「高効率」と称しながら削減効果が1割ほどしか見込めない方法で稼働し続け、2030年の電源構成でも未だに主力電源として位置付けられています。
【特権構造と気候危機】
初めに、自分の特権性について書きました。ここでは、その「特権構造」と気候危機について自分なりの意見を述べようと思います。
気候変動問題は環境問題の一つで、人間活動に起因する産業活動の結果として現れた自然破壊(森林伐採、温室効果ガスの排出など)によって起きる諸問題の一つとして理解されていると思います。そしてそうした破壊行為が止まらないのは、産業活動による利益のほうがひとまずは重要に思えるからであり、これに歯止めをかけることができないのは資本主義による市場原理重視の政策や企業行動のせいだ、と一般的に認識されています。実際、その見方は正しいし、長期的に見て便益となり得るかどうかという考え方や被害者への配慮が欠落している、もしくは分かっていながら目をつむっているということが問題であることは事実でしょう。ただ、この問題においては、その解決に向けた議論が思うように進んでいないように感じています。産業の転換、具体的には化石燃料の利用から再生可能エネルギーへの転換など、気候変動への危機感から代替産業の開発が進んだことでその道筋はかなりハッキリと示されるようになってきています。社会全体で見ても、経済にはプラスだし、場合によっては雇用も増えるというシナリオを、様々な研究者が唱えています。しかし、問題解決に向けた公共空間での議論は進んでおらず、市民が団結しようという雰囲気はほとんどないと感じるのです。脱炭素化によって変化を求められる産業の当事者が反発することは容易に理解できますが、これにはもっと深い理由があるのではないでしょうか。利害関係において両端に位置する者どうしの闘争としての構造や、単に人々の問題への関心が低いということだけではなく、社会的立場による分断が後ろに隠れているのではないかと私は考えるようになりました。
ハーバード大学の教授、マイケル・サンデルの著書『実力も運のうち 能力主義は正義か?』では、アメリカにおける社会的地位の高い人と低い人の間での政治的分断について考察がなされていました。その人の学歴や功績は、全てその人の努力のみで成し得たわけではなく、偶然的に恵まれた環境に起因していて、つまりは成功するかどうかは運も含まれているということを、成功者は見落としているということが強調されていました。それを、あたかも全て自分の実力だと勘違いしてしまうことが、運や才能に恵まれない「敗者」が屈辱的な感情を抱くことに繋がっている......。これは、おそらく日本においても一定程度同じことが言えるだろうと思います。政権の新自由主義的な政策が進み、富める者とそうでないものの格差がより一層広がる中で、気候危機を弱者の人権保護という文脈で捉える人は少ない気がしています。むしろ、エリート層が重視する問題として認識されやすいのではないでしょうか。「意識高い系」などという言葉があるように、余裕のある恵まれた一部の人々がきれいごとを言っているというイメージがあります。快適な会議室で話をしている人たちのメイントピックである、と。もう少し具体的に言うと、例えば再生可能エネルギーの普及には、各地方でそれぞれが最適な設置場所を決め、建設する必要があるのに対し、それを推し進めようとするのは都市の資本家であり、社会的階層の高い人たちである、ということが起きています。特権的な層が、ある種、抑圧的に政策を一方的に進めることにより、現場はそれを上からの圧力として認識し、嫌悪感を抱いたり意識のずれによって対策が前に進まないということが起きうるのです。
「パリ協定の想定される負担からアメリカを解放することは、実は雇用とも地球温暖化とも無関係だった。トランプの政治的想像の中では、屈辱を回避することに関わっていたのだ。この点が、トランプに投票した人びと、それも気候変動に関心のある人びとの心にまで響いたのである。」これは実力も運のうち 能力主義は正義か?』に登場する一文です。アメリカにおいては、気候変動というトピックが、民主党を支持する特権層が下の階層に対する抑圧をおこなう原理の内にあるとして捉えられている一面があり、敗者が屈辱を回避するには気候変動対策という抑圧から解放する必要がある、という論理に繋がったのです。それが実情に即しているかということは重要ではなく、人々の感情に対する処方箋になっていたということでしょう。これが、気候変動対策に逆風となっている隠れた原因ではないかと私は考えています。
こうした意識のズレがある状態で議論を開始しても、気候変動問題そのものではなく、その対策が自らを抑圧するものではないか、ということへの疑念が晴れません。また、実際にそうした疑念への配慮がなされない議論の場が多いことが、まずい。かつて、環境運動は白人主導であったと言われています。社会的弱者を守る運動ではありませんでした。現在の環境運動では、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリなどに代表される若いアクティビストが「世代間不平等」や「気候正義」を掲げて声を上げているが、分類としては彼ら(というか私もアクティビストなので、私たち)はエリート層に属していると認識されることも多いでしょう(実際には、一概にはそうとは言えない)。発展途上国の先住民族が起こしている環境運動のほうが、ずっと現実味があり、リアルな当事者性を持っているように感じています。
【私たちが向かうべきところ】
このジレンマを解消するには、根本となっている能力主義(自由主義)について、人々の感情の面と、市場経済というシステムの面で見直す必要があると考えています。いかにロジカルに説明しようとも、それ以前に存在している両者の分断を解消しないことには、対話がスタートしないのではないか。また、やはり環境問題は市場経済、資本主義が生み出した負の側面でもあるわけで、自由であることと放任であることの区別はしなければなりません。経済システムとしての自由主義への問いかけに加え、能力主義が作り出す勝者と敗者の存在から見えてくる立場の分断と、屈辱の感情への問いかけが重要だと思っています。また、気候危機の解決策を論じるときに、話が専門領域に入ってしまうことで、この問題を論じるのは専門家の仕事で、知識が無いことには参加できないということが発生してしまいます。そのため、私はここで再エネや産業の転換に関する技術的な話をしませんでした。気候変動問題が、グローバリゼーションなどによって拡大した格差の中で、特権層の論理としてではなく、全ての人にとっての公正な世の中を作るために積極的に議論されるべき問題である、という認識に変わらなければいけません。企業のSDGsやビジネス上の問題ではなく、私たち全員の人権を脅かす、特に弱者を守らねばならない、社会正義の問題であると認識する必要があります。
気候危機には、タイムリミットがあります。パリ協定の努力目標であり、2021年にイギリスのグラスゴーで開催されたCOP26でその重要性が再認識された「1.5℃目標」。産業革命前からの地球の平均気温上昇を1.5℃以下に抑える、というものです。そして現在、気温上昇は1.09℃に達しています。1.5℃を超えると、
この問題における主人公は、私たち一人一人のはずです。しかし、議論の場は一部のビジネスシーンか教育現場に限られ、世論や報道では、この問題の深刻さやタイムリミットが共有されていないと私たちは感じています。社会の在り方を根本から問い直し、未来を創りだそうという大きなうねりは、起こっているのでしょうか。
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