私はまだ「気持ち」を知らない
私は本当に大人な子供だったのだろうか。
子供の頃、「わさちゃんは大人だねぇ」と周りの大人からよく言われた覚えがある。
中高生になっても「わささんは他の子より精神年齢が高いんだね」と言われた。
子供の頃のそれは、早熟なことへの純粋な賞賛であり応援だったと思う。
中高生の頃のそれは、集団の中で生きづらさを感じる気質へのちょっとした同情も含まれたような言葉だった。
大人ってなんなのだろう。
他人と比べないことだろうか。
いじめないことだろうか。
心が落ち着いていることだろうか。
ひとりでも過ごせることだろうか。
私はそれらをしたんじゃない、しないことを最初から知らなかっただけだ。
だから私の一見「大人な」部分は、物心ついたばかりの「子供」の延長でしかない。重ねた年齢も成長もそこにはないのだ。
だから私は「嫉妬」という気持ちも、「悔しい」という気持ちも、「忖度」という気持ちも、おそらく「衝突」さえも、成人直前の今ですら1ミリも解することができない。
中高生の頃の「大人な」生きづらさは私が大人だったからではなかった。
学年の目立たない子を「軽蔑」し、成績優秀な子に「嫉妬」し、「狡猾」かつ「陰湿」にいじめる子。
そんないじめる子に「忖度」し、「同調」し、いじめを積極的に助けるその子の友達。
私にとっては彼ら彼女らが完全に未知の生物であり、漠然とした恐怖の対象だった。
知らない世界、だけど私の子供な正義感には絶対に合致しない。でも人間だから、私が存在を否定したら私の主義に反する。だから怖い、生きづらい。
人の「気持ち」はたくさんあって、それらが絡まっている。負の感情は特に、絡まりすぎて見えないものが多い。
私はちょっと背伸びした子供のままで、腹芸がまったくできないままで、
周りからの知らない、見えない感情だけが膨らんでいっている。
さながら心が成長痛を起こしたままで治らなくなっているように。
これから私はそんな気持ちを当たり前に抱えられるような人が何人もいる「大人の社会」に出ようとしている。出なければいけない。
知識は増やせる。視点は増やせる。
でも端から分からない、暗い「気持ち」への理解は、どうやって増やせばいいのだろう。