物が見えないということ
これは教養のメタファーでもない。
視力がないということでもない。
そこに物理的にあっても見えないという話である。
日々さまざまな物が必要な生活を送っている。
スマホに財布に筆記用具、イヤホン、ハンカチ、ティッシュ。
各日の予定に応じた書類やアイテム。
そして今ではマスクなどの衛生用品。
まるで小学生のランドセルのように、できる限り予定済みのものは前夜にカバンに詰めている。
それでも必ずひとつは忘れ物をしてしまう。
それは荷物が本当に出来てるのかと不安になる故の直前のパニックが起こす二次被害だったり、
その日急に決まった持ち物を本来の予定をこなしながら用意することの難しさだったりする。
鍵や時計は整理棚に戻すという自分なりの対策でなくしにくくなった。
それでも書類やスマホはかなり頻繁に家の中で見失ってしまう。
どれだけ早起きしても、結局出発10分前に発作的に頭がいっぱいになって何かを置き去りにしてしまう。
パニックを起こすのは悪循環だと言われる。
分かっている。
ただ、辛いことがあった人がひとしきり泣いてからリスタートするように、私にもしばらく閉じこもってもとに戻るためのエネルギーを取り戻す過程がいるのだと最近は感じている。
別になりたくてなってる状態ではない。
ならないほうが心身に良いのも分かっている。
一度なってしまった以上、いきなり正常にできる訳がなく、それなりに過程を踏まないと戻れないということだ。
でも、パニックを起こした人間を見ると
「不快だ」
「よくない状態だ」
「早くあの人を収めなきゃ」
と当事者をなるべく早く正常に戻そうと働きかけるだろう。
正直言って自然な思考だと思う。
援助が要ることももちろんある。
ただ、言葉で具体的に働きかけられるのは私にとって逆効果に感じてしまう。
言ってしまえばパニックというのはパソコンの処理落ちフリーズに近い。
入った情報が多すぎて次の思考に進めない。
そこに整理させるためとはいえ他人から新しい言葉をかけられるとどうなるか。
「応答なし」のウィンドウでカーソルをクリックし続けるのと同じ状態になる。
私のパニックに要る処理はシャットダウン、若しくはタスクキル。
一度立ち止まっていいよと言ってもらうことである。
そんなことを繰り返してでも、視覚処理が上手くなくても、私は出先で困らないような大荷物をこさえて出かけている。