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目をそらした先で息をした話

「親しい人」「友達」という言葉からどんな人を思い浮かべるだろうか。

私の場合、序盤数人は中学時代からの同級生だ。しかし、10人にも満たないうちに1世代上の人や小学校一回りぶんほど年下の人が登場する。

社会人からしたら割とあたりまえの現象かもしれない。仕事や趣味で幅広い立場にある人と出会う機会も多いことだろう。
しかし、まだ学生の身としては、この傾向が通じにくい環境で行き詰まった思い出も記憶に新しい。



その環境は、クラス制、すなわち学校である。

いままでにも子どもの心の問題に絡めて何度となく取り上げられてきた「クラス」の異常性。私の記憶の中では、クラスという1年間ずっと閉鎖的な集団の息苦しさが原因で学校に行けなくなった経験はほぼ毎年ある。

小学校~中学校~高校1年までは授業もほとんどクラス単位。それを差し引いても固定の担任教師が各クラスにいるせいか、少なくとも終礼まではつねにクラス集団の枠組みやスケジュールを意識することとなる。



するとどうなったか。同学年交流の苦手意識があった私は、高校の修学旅行での自由行動の班分けでクラスでたったひとり余り物になってしまった。

修学旅行は学年全体の行事。苦手意識があるとはいえ、それを乗り越えて話のできる仲のいい同級生はいたのだ。……他のクラスに。

班分け申請期間後の学級活動で想定外の余り物として向けられたさまざまな視線は今でも心をきしませる。

クラス制の中で仲良くなることを理由に、班分けの枠を学年全体で決めることは元から考えられていなかった。
そしてその理由とやらにも実態とのずれがあった。みんな同じクラスの部活仲間や昔馴染みとばかり群れるようなクラスだった。

もとより大事なイベントで新しい関係を突発的に作れる集団ではない。


私はそんなに仲の良い既存の固い群れに同じクラスだからという理由だけでわざわざ入るのが申し訳なかったし、怖かった。

でもそんなくだらない枠組みのせいで修学旅行に参加しないというのは何かが違う。他のクラスの友人に心配をかけてしまう。それに、本業・学生としていちばん長い時間居ざるをえないクラスから半年もせずに存在が薄れるのがどうしようもなく怖かった。

そうして結局、私はクラスが絡む行動ではひっそりとする選択をとり、修学旅行には行った。
全体的には楽しかったが、どうしても集団における疎外感や孤立したせいでクラスの運営に迷惑をかけたという感覚が恐怖となって心に根を張っている。


私のほかにも、クラスのグループラインで逆恨みされたとか、クラスの中で受験ストレスから八つ当たり的にいじめられて不登校以外の逃げ道がなかったとか、そんな例がある。



クラスなんていうのは烏合の衆だ。それなのに無意識のうちにその枠組みにとらわれたり、その中で仲良くしろと大人は強制する。

しかし実態はどうだ。心のゆらぎが起こるのが当たり前な子どもや青年から、いちばん長い時間の居場所を主体的に選ぶことを取り上げているだけではないか。

つまるところ、クラスという枠組みに管理システム上の意味があるとしても、実態としてはクラスである意義はない。



まわりを見るに、私は運よく何度か逃げ場所をつくれたほうだと思う。

私は、親の寛容さや課外活動を好む主義も手伝って、外部の野外活動クラブや半年単位のボランティア活動に積極的に参加していた。

声楽や陶芸といったちょっと変わり種の習い事もしたことがある。
ちなみに塾は費用が高いことや週に何回も行くことを強制されることが親子ともども苦手なので、高校卒業までを通算しても2年分ほどだ。

そのような学校や勉強とまったく関係ない活動は私にとって重要だったと今でも思い返すたびに感じる。

ときに地域に住む名人と、ときに優しい大学生と、親や祖父母の年代の人と、同年代でも同じ学校では会えなかったであろう人と。

日々の学校で息が詰まるような状況にあっても、クラス内にいることが無性に怖くなっても、活動でまったく違う環境があることで、そんな痛みから目をそらせることができた。


異常な学校の環境が生む痛みから目をそらした先にあったのは、学校で同年代とばかり過ごしていては見ることのなかった世界。


いろいろな人がいて、でもそれぞれのやり方で過ごせることで不思議なバランスでもってそこそこに生きられる、社会。


学校はあくまで学校で。
学校生活は社会に出るための勉強とはよく言うけれど。
小さな小さな型に押し込めた、社会の再現なんてできないいびつな箱にすぎないところがほとんどだ。


だから、クラスとか、そうでなくてもなにかの枠組みで苦しんでいたら。
それでも逃げ道がないと思って行き場をなくしていたら。

そんな居るだけで苦しい集団なんて、捨ててしまえばいい。

やりたいことがあって居る集団なら、自力で進める方法を探し始めればいい。もし今は力不足で叶わなくてもやり方さえ知っていれば、逃げ道があるというだけで少しは地に足がつく感覚を取り戻せる。


私はもともとの傾向に加えて、環境を変えた経験が何度かあるからか、同級生の友人が他人より少ない。

それでも、他の年代にだって気の合う人は見つかるし、その少ない同級生の友人は環境が変わっても交流が続く、大切な存在だ。

決まりきった枠組みにとらわれなくてもいい。自分の心に正直に、外へと目を向けた先には、きっとこれからも見たことのないものがある。


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