はじまらなくていいのに
2025が始まった。
さすがに今年は歳を越して欲しくなかったけど、結果、越してた。
2024年の12月なんて後半の記憶が無い。仕事場の居心地は良くなったが、仕事自体に活力を見出すことが出来ず、結局、体力だけ消耗し続けてしまった。気づいたら熱も出たし、痰を含む咳も止まらなくなった。頭が常に痛かった。多分だが、某感染症にかかったのだろう。免疫が下がりすぎていた。とにかく疲れた。
疲れたらどうなるか。自分の場合は篭もりたくなる。とにかく外界との繋がりを遮断したくなる。かくして、仕事の往復のみを行い、帰宅後は速やかに睡眠モードに入るという怠惰な生活になってしまった。
12月の前半は自分の人生を歩むためにどうすべきかを真剣に考えていたが、段々と仕事が忙しくなるにつれ、自分の余裕がなくなり、人生を歩む前に目の前の休息をとりにいってしまった。これではダメなことくらい分かっているが、体と心が同じ方向を向かず、結果的にベッドで横になっていた。
正直、残り2週間を走り切る分の体力が残っていなかっただけだし、別に目の前の休息を取ること自体ダメではないのだが、きっとこのままずるずると怠惰な方向に行ってしまうと、切り替えができず、怠惰な人間がデフォルトになってしまい、より一層外界との繋がりを遮断し、排他的になるだろう。
排他的な自分は好きでも嫌いでもないが、排他的な時の「自分じゃなくて周りが悪いでしょ」という他責のマインドで生きるのは好きではない。
でも、2024年が終わるタイミングはまさにこのマインドであった。
2025年の始まりもマインドは変わらなかった。あけましておめでとうの連絡もほとんどせず、仕事のLINEも連絡も返していない。「休みだから」という理由でことごとく無視してしまっている。これはよろしくないと感じる。でも、変わろうと思えば思うほど変えられない。自分の悪い癖である。
ただ、書き方で気づいたかもしれないが、今、排他的な自分がまたしても変わろうとしている。なぜか。簡単にいうと、友人と遊んだからだ。
中学の友人とバッティングセンターに行ったり、別の友人とモルックをして、サウナに行き、餃子の王将で夕食を食べた。この何の変哲もないような日常に楽しさを覚えてしまった。思い出してしまった。
確かに、排他的な自分は楽ではあるし、気を遣うこともない。なにより人間関係という一番難しい問題を抱え込まなくていい。友人との遊びは人間関係の問題がほぼゼロに等しい。が、それは長年一緒に居たからであり、他の関係性でこれを再現できるかというと難しい。
なのだから、基本的には人間関係で困ることは常であるし、それでモヤモヤしてしまうのは好きではない。ただ、それは同時にあるかもしれない”楽しさ”を捨てているということでもある。
自分にとって、人間関係とはギャンブル。いいか悪いかはその日次第。ハズレの日は当然に腹が立つ。けど、当たった日は凄まじく楽しい。
きっと、排他的な自分はハズレを恐れていたし、休息が欲しかった。だからこそ、ノーリスクを選んだ。
外れないためにノーリスクを選ぶことは間違っていないが、今の自分にとっては、その時間は終わったと思う。別に外れたとしたら、潔く帰ればいいだけなのだから。
長々と書き連ねてきたが、何がいいたいかというと、自分の中で今がようやく2025年が始まった気がする。
「はじまらなくていいのに」と思っていたのに、2025年が始まってしまった。始まってしまうなら、少しでも楽しい方がいい。もちろん外れることもあるだろうけれど。
ということで、そろそろ本格的に動き出そう。
でも、仕事は忙しくなっちゃうな。
仕事は好きだけど、やりたくない。めんどくさい。あぁ、やだな。
嫌になったらまた篭ろう。けど、篭るまでは頑張るとするか、、、