言葉を半拍ずらす
人に何かを伝えたい、知っていることを語りたいって気持ちがどうしても出たときの感覚。ドラムを長らくやってきている身体感覚で例えるとそれは、「走ってしまうリズム」とどこか似ている。そう、走ってしまうんだよなぁ。
僕は高校のときにドラムを始め、大学2年までキックペダルの「ダブル」に苦戦した。「ドドッ」と2回連続で打つんだけど、最初の一打がどうしても1/4拍ほど早くなって、つんのめりになってしまうのだ。この癖を治すのに随分苦労した。「気持ち半拍ずらして打とう」と思ってちょうどいい塩梅に落ち着く。ヒップホップ特有のバックビートから学んだことも多い。
これって、発話とすごく似ている。思ったことをそのまま口にしたり、言いたい衝動のままに言ってしまうとき、言葉はまさに「つんのめる」。最近、アトリエで電子ドラムを日々叩くなかで、「言葉」について考える。いま自分は、一音一音、独立した形で、その言葉を紡ぎ、受け渡せているだろうか。
その昔、コーネリアスの『Point』(2001)を聞いた時、とりわけ1曲目の「point of view point」のドラムに心底やられた。平たく言うと、ハイハット、スネア、キックがそれぞれ独立しながら粒を保ち、しかし、一音一音が徐々に連続性を持っていく過程で、グルーヴとして勝手に流れてはいかない、音の意志と意志がぶつかりながらも共存して「流暢」とは別のグルーヴが生まれる感覚。ひとつひとつ、ちゃんと「頷く」感じがそこにはあった。
「SjQ」というサウンドユニットで長らくドラムを担当するなか、時に流暢になってしまうドラムをどう抑えるか、メンバーとも議論した。僕はよく喋るし、喋るように手数の多いドラムを叩いていたから。でも、それを辞めてみた。リーダーの魚住勇太の提案もあって、物理的にトップシンバル、ライドシンバル、ミッドタムもフロアタムも削った。ハイハット、スネア、キックの三点だけにしたのだ。そして、同時に二つの音を鳴らすことをやめた。右手だけで叩いた。左手は叩いたスネアをすぐミュートし、アタックだけを、その粒だけを抽出した。それは、いま思えば、何かドラムとは関係のない次元においても「レッスン」になっていたのだろう、と思う。
あるとき、尊敬するアーティストの一人である山川冬樹さんに、「アサダくんの語りは、ドラムとそっくりだね」と言われた。すごいな、この人は。なんで考えてることがわかるの?って。
そう、結局、発話も「身体」なのだ。身体で在るがゆえに、コントロールが効かないことも大いにある。でも、余白を想像し、半拍遅らすことは可能だ。そして、ある瞬間はぎゅっと音を凝縮させる。その緩急。それは、いまその瞬間の語りや演奏というレベルだけでなく、より長いスパンの「活動」の周期とも通ずるのかもしれないと思うと、ちょっと気が楽になる。いつも連打できないし、しなくてもいいのかも、とか。