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「水辺」を求めて三千里

時間の過ぎる速度が日に日に上がっている。ただただ目の前に来る仕事や子育てに追われる中で、じっくり考えて表現する時間にまで「効率化していかな!」というモードになっていることをどう考えるか。実際に、判断を早くしたり、判断するための思考の材料を日々整えたりすることは大事だと思う。でも、それをやりすぎると常に前のめりになって、他人に厳しくなったり、自分を追い込みすぎたりする。でも、それでもどこかで「まだやれる」と思っている。そう自覚しながらも、やはりそれでも「まだやれる」と思い続けることは悪いことでもないし、だから思い続ける。でも解放されたくもある。

いま新幹線に乗っていて、街並みや山々の景色の緩急のなかで、ふと「ヌケ」が現れることがあり、それは日常においてもとっても必要だと思う。僕は水辺がすごくすごく好きで、連日、水辺に住みたいと思い(実際、琵琶湖の近くに住んでいた大津時代に帰りたいとすら思う)いま住んでいる大阪の東部エリアで毎日のように水辺をGoogleマップで探してはその近辺に実際に行ってみることもあるが、現実的な問題に阻まれてなかなか身動きが取れない。昨年父が突如亡くなって、堺で母が一人暮らしになり、その家の近くにはたくさんの古墳があって。先日、パートナーの渡邉と古墳の周りのお堀なら水辺があるだろうと、そのお堀ギリギリのラインの住宅探索に出た。だからと言って娘らの学区のこともあり現実的には今からまた転居なんて課題だらけだが、なんか自分なりの方法で、物理的な水辺でなくとても、それと同等の機能的価値がある「水辺」を手にいれる方法はないかと、真剣に考えている。アクアリウム水槽を始めるとか、めちゃめちゃ大きい壁掛けスクリーンにずっと水辺の風景を映しているとか。そんな陳腐なアイデアしか思いつかないが、もっと、もっと、あり得ない方法で。

単身赴任の四年半は映画を観ることが自分にとっての「水辺」だった。最近、やることに追われてなかなか映画を観る時間を確保できず、やっと観れる映画は、味の濃い映画で。疲れていると、塩分や糖分をたんまり取りたくなるように、映画も刺激的な内容の映画(僕の場合ばナ・ホンジン監督やパク・フンジョン監督の韓国のアクション多めのフィルムノワールや、白石和彌監督の暴力団がらみのものとか、あと「ジョン・ウィック」シリーズとか、イコ・ウワイス出演の映画とか)を観ることが多いが、ほんとうは(それらの映画が後述する性質がまったくないということではなく)もっとじっくりと時間が流れてゆくような、味は濃くないけどかなりじわじわ優しくも鋭く効いてくる映画を観たいのに、観る体力が残っていないといきなり醤油をぶっかけてしまう。かろうじて映画館に行けたときだけ、かなりじっくりと「水辺」に浸れるが近所の映画館は台風の被害で1年半越しの復旧期間に‥‥‥。やるせない!「水辺」はどこだ!?

で、たどり着いたのは、自分自身が「水辺」になるという発想。別にプールで泳ぐとか、イルカになりたいとか、そういうことではない。ちょっとそれについて考える。でも、こうして「書くこと」ってちょっとそれに近いかもしれない。

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