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「懐かしさ」についての覚え書き/『共創のコラボレーション』(UTCP)より

東京大学 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)が取り組んできた「デザイン×哲学対話」を集積をまとめた書籍『共創のためのコラボレーション』。アサダも主宰の梶谷真司先生と共に、2018年に駒場キャンパスにて「音楽×想起によりコミュニケーションデザイン」をテーマに語り合いました。その後、今回の書籍に「自由な内容で寄稿を!」と言われ、「懐かしさとメディア」の関係について軽めのエッセイ(同誌pp8-9)を書きましたので、以下ぜひ読んでみてください。

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「懐かしさ」についての覚え書き
アサダワタル

〈哲学×デザイン〉プロジェクトのイベントに登壇した際に話したテーマは、「音楽と想起のコミュニティ」だった。僕は「想起」という現象について語るうえで、「懐かしさ」とどう付き合うか、いつも考えてきた。「懐かしい!」という感情は、世間一般では良いこととされている。実際に僕も、音楽で人々をその感情につなげ、場をつくることをしてきた。でも、「懐かしい!」が、時として分断を生むこともあるのではないか。

こんなことを思い出す。

90年代始め、毎週火曜日に、大橋巨泉が司会を務める『ギミア・ぶれいく』(TBS)という番組があった。中でも記憶に残っているのが番組内で「徳川埋蔵金発掘プロジェクト」というコーナーだ。江戸末期、討幕軍に江戸城を明け渡した幕府が、いつか再興するために群馬県赤城山山中に隠したとされる徳川埋蔵金。その存在を確信し、明治16年から120年あまり、祖父子三代にわたって掘り続けている水野家の取り組みに光をあて、糸井重里を筆頭としたプロジェクトチームを結成。重機を大量に導入し、莫大な予算をかけて穴を掘り続けては、「あるとしか言えない」とまで言い切った糸井氏。当時通っていた大阪の小学校では「昨日はあそこまで掘れたね」とか「いやいや、結局ないんとちゃう!?」といった会話がなされ、全国的なブームとなった。でも、埋蔵金はとうとう見つからなかった。プロジェクトチームも解散。誰もそのことを口にすることがなくなり、仮に会話にあがっても「(笑)」にしかならず、埋蔵金を代々掘り続けているあの家族の存在も、世の中から忘れられていった。

それからだいぶ経った2006年の秋、当時お世話になっていた大阪の映画館で見かけた上映スケジュール。そこには、『あたえられるか否か~徳川埋蔵金120年目の挑戦』と書かれていた。この映画は、水野家の取り組み、とりわけ三代目、水野智之さんを3年に渡り記録したドキュメンタリーだ。この映画のことを知った多くの人は「懐かしい!この人たち、まだ掘り続けているの…!?」という反応をしただろう。僕だってその一人だ。芸能人でも、スポーツでもなんでもいいけど、こういう感覚を持ったことはないだろうか。

「うわ、まだ、やってんねんや」
「めっちゃ懐かしい。まだ続いてるの!?」

僕はその反応を自ら体感しつつ、同時にそんな反応を抱いた自分に対して違和感を覚えた。「その“懐かしさ”は、都合の良いアウトサイダーの主観にしかすぎないのでは?」と。

拝んで神のご信託でボンと出るようだったら、
水野は120年何をやってきたのか。
だからこそ、掘れる。
そういう信念があるからこそ。
そういう星の下に俺が生まれちゃって、
やらなきゃならないという、
ひとつの使命感が生まれちゃった。
だからやる。
(水野智之さんの言葉。映画『あたえられるか否か~徳川埋蔵金120年目の挑戦』より)

そうだ。さらに思い出す。

プロ野球をよく見ていた小学生時代。僕は西武ライオンズが好きで、当時は近鉄バッファローとか南海ホークスとか、阪急ブレーブスなどがチーム名だったが、気付けばソフトバンクとか、楽天とかDenaなどと名前がどんどん変わってゆき、現在まったくプロ野球をみない僕にとっては、それを「終わったもの」として見ている。でも当たり前だが、多くの人たちにとってプロ野球はまったく「終わって」なんかいない。僕の中でのプロ野球に対する関心という意味での「メジャーな時代」「輝かしい時代」が終わっただけであって、現実はただただ続いていく。音楽でも「あのバンド、まだ活動してるんか!?」という反応も、当人やそのファンにとってみたら「当たり前やん。あんたが勝手に関心失っただけでしょ」という気持ちだろう。この無関心の主観を裏返して考えれば、そこには「自分が関心を持っていた(見ていた)時代が全盛期だった」という謎の思い込みが存在する。

その思い込みを助長する存在として、「メディア」があるのではないか。メディアは、相手の関心のきっかけをつくると同時に、その関心をメディアがその時取り上げたい流行とがっぷり四つ連動させてしまう。つまり、「そこに現れているから関心を持ち、現れなくなったから関心を持たない」という構造を生み出す。ごくごく当たり前のことを言っているのは承知だが、これは恐い。つまり出来事の「現れ」を発見するそのバリエーションがあまりにも狭すぎるということだ。僕らは無関心の主観を助長させる前に、関心のきっかけとなる「現れ」の発見方法をこそ、主観で編み出さないといけない。まず具体的には、世の中にわかりやすく「現れている」という現象に対して、疑いの目を投げかけること。実は「なだらかに続いている」ということを見落さぬように。そう、メディアが一部を切り取らなくても「続いて」いくのだ。

改めて、僕は「音楽と想起のコミュニティ」というテーマにおいて、このことを強く意識している。音楽などの表現を「現われ」の発見方法とすること。「懐かしい!」で過去と現在を分断するのではなく、むしろ「地続き」であることこそを確認すること。その構えがあってこそ、「懐かしい!」の先に自己や他者との新たな「出会い直し」があるのではないか。

誰かにとっての「懐かしい!」は、別の誰かにとってはリアルタイムであるということ。対象への関心をずっと持ち続けている人たちにとってみれば、その対象の行く末と彼ら彼女らの人生は心地よく連動していることを踏まえること。僕はこれからも、「懐かしさ」の取り扱いに関心を向け続けるだろう。


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