音楽は〇〇でもありえる ー音大で授業して考えたことー
例年、音楽大学で作曲や演奏を学ぶ学生さんたちにゲスト講師をしている。具体的には東京音楽大学と大阪音楽大学だ。京都精華大で非常勤講師をしていたときは所属学部がポピュラーカルチャー学部というところだったけど、そこでも音楽コースを専攻している学生さんが多く、「音楽表現×生活世界」みたいなことを、いろいろ話したり、時にワークショップしたりしてきた。
それで、ちょうど数日前に、東京音楽大学の「音楽文化教育の最前線」というゲストレクチャーシリーズに招待してもらって、「社会を知るのではなく“感じる”ための窓としての音楽表現について」というテーマでオンライン講義をした。僕の(狭義の)ミュージシャンとしてのキャリアを話し、それが音楽業界的なところから離れ(外れ?)てゆき、現代美術シーンにおけるアートプロジェクトという文脈や、地域におけるコミュニティデザインという文脈とも接合していき、「音楽による不思議な場の演出」を生業のひとつにしてきたことなど。オンラインということもあり、やや学生さんの反応・温度感を把握しにくかったんだけど、後日、感想シートを送っていただいて、いろいろ感じることがあった。音楽にまつわるキャリアに希望を感じてくれたり、音楽ってこんな可能性があるんだなっていい意味でも素朴な感想をいただいたのだけど、一方で、「音楽で課題解決できる」といったニュアンスを含んだ感想が全体的に多く、何かとても“良いこと”をしている人、のように思われたのだなと、感じた。それ自体、別にかまわないのだけど、でも、僕としてはもっと「音楽」を学ぶ彼女ら彼らに伝えたいことがあったんだけど、僕の力不足もあって、90分の講義ではうまく伝えられなかったことを反省した。
僕自身は音大出身ではないけど、大学時代はほぼ音楽しかやってなかったので、そのまま就職せず、いくつものバンドでドラマー、ソロで作曲とパフォーマンス、ドラマーとして映画やCMの演奏業をやりつつ、さらにそれだけで食えないからアルバイトなどをやっていた。そして、当時の僕は音楽(や、それにまつわる仕事づくり)の自明性や常識を疑いつつも、やはりそこに着地せざるを得ない現実を何度も目の当たりし、どうすれば生きていけるのか、わからなかった。音大生であれば、音楽のジャンルは様々な違うにせよ、なおのこと、この音楽にまつわる自明性から抜け出せずに四苦八苦する人たちは多いだろう。だから、彼女彼らの悩む気持ちは、僕なりに想像に難くない。
担当をしてくださった先生から「学生達の感想にアサダさんからコメントを返して欲しい」と依頼を受けたので、ここでちゃんと伝えたいなって思った。そして、これは、音楽大学の学生さんだけに伝えたいことでもないなと。もっと広く、文化に携わる人たちに、「音楽」を愛する人たちに伝えたいことでもあるなと思ったので、ここにその内容をそっくりそのままシェアしようと思う。
このテキストは書こうと思ったことがあったというよりは、伝えたいことがなんとなくあって、書いていくうえでまとまらない言葉がまとまらないなりに少しずつ
輪郭を留めていくような感覚だった。いつもこうして、誰かと対話をする機会をいただくうえで、僕自身も言葉を獲得してゆく感覚がある。
ともあれ、音楽は〇〇でもありえる、ということ。こういう機会を与えてくれた、学生さんや先生方関係各位にお礼を申し上げます。