もっと「そもそも」の話を

深く関わってきた人たちの間で重大なハラスメントがあったことが一昨年11月に報じられてから2年が経ちました。本件についての背景は、当時のメディア記事や、被害者を支える人たちが運営するウェブサイトなどを参照いただきたいですが、この間も、関係者に話を聞いたり、裁判を傍聴したりしながら、自分なりに近しい現場で見てきたこと、感じてきたことを、近々記事にまとめようと思います。

様々な職場での重大なハラスメント事案がニュースになり、声を上げた被害者たちの想像を超える、比喩ではなく文字通り決死の覚悟でのアクションを心底支える人たちがいる一方で、SNS等でひどい言葉で被害者を中傷し、傷跡を上から何度もえぐるような行為をする人たちも存在します。

本件に関してよく聞かれるのが、「事実かどうかまだわからないから、何も言えない/できない」という意見です。確かにそうかもしれません。「事実があったかどうか」の判定を裁判にのみ委ねるならば、私たちはその結果をただただ待ち、安易な考えを公にするのを慎むべきかもしれない。でも、少なくとも被害者にも加害者にも近しい関係にあった人間ならば、「事実かわからないから中立」という立場を取ることは違うのではないかと、僕は思っています。なぜなら、他ならぬ自分が見てきた景色を、聞いてきた声を、感じてきた温度感を再び想い起こし、こういうことが実際にあり得たのではないか/なかったのではないか、と想像し、「個人」として責任と自覚を持って意見を言うことはできるはずなので。

「できる/できない」ではなく「する/しない」の問題として捉えるべきだと思うのです。大切な人を守るためには、するか、しないかだと思う。もちろん「できない」という人の中に、本当はこう思っていてもそれを口にすると自分の身に危険が及ぶとか、誰かに迷惑をかけると思っている人もいることでしょう。だから「絶対に〇〇すべき!」はありえない。でも、こういった心配も含めて誰が望むか望まないかもはやよくわからない「構造的な暴力」が存在していると思います。

そもそも、組織における上下関係やジェンダー格差が実在する社会構造において、その権力の非対称性を前提にそれでも被害者が声を上げるということの難しさに想像力を働かせず、「なぜ加害者は実名で吊し上げられているのに、被害者は匿名なのか」とか「なぜ、何年も前の話を今になって告発するのか」といった意見を語る人は、その時点で「事実か否かが浮かび上がる過程においての非対称性・非中立性」について思いを馳せてほしいと心底思う。

また本件の周辺には、障害者を始めたとした弱者の権利について多くの言葉を語り、より良い共生社会の実現を目指してアクションをしてきた人たちがたくさんいることも重要で、そしてその活動の輪 ー 関係性から生まれた「正義」とその正義を盾に組織の中で培われた「権力」が外にも内にも地続きに発揮されるときに、まるで逆方向の結果を生み出すというこの「構造」こそをちゃんと指摘することが大切だと思います。逆に言えば、「加害者」だけが「悪者」でもない。だから「中立」と言いながら実際には加害者を守っているということもあるけけど、のみならず、この「構造」を延命させているということにこそ気づいてほしいと思います。もっと大切なのは「そもそも」の話なのです。


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