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『THE BATMAN -ザ・バットマン-』 ・ 寸評


 バットマンの歴史を全て振り返るのには、恐らくそれだけで一冊の本になる。
 DCコミックスの歴史でもあり、もう一つの巨大なレーベルであるマーベルの歴史でもあり、最早、グラフィックノベルという、アメリカそのものなのかもしれない。そして全世界にはすでに「文学」「芸術」として研究者がいる。
 それだけに歴史が深く、世界に与えた影響は大きい。バットマンは世界で最も愛されるアメリカン・コミックスのキャラクターの一人である。

 ここではエポック・メイキング的な映画作品と一部コミックにのみ絞って簡単に系譜を追い、単体の「映画として」の『THE BATMAN -ザ・バットマン-』を簡単に評してみたい。
 そのため、イースター・エッグの発見や、オタク的なカルチャーや裏話の批評ではないことを、筆者自身が自認の上なので了承した上でお読み頂ければ幸いである。

 近年で、恐らく誰もが認めるバットマンの映像化の最高傑作は、ティム・バートン監督の『バットマン・リターンズ』(1992)であろう。
 バートンの偏愛する怪奇映画とドイツ表現主義、トッド・フィリップスの『フリークス』(1932)などからの影響や、ビザールなアール・デコの散りばめられた時代の定かではないゴッサム・シティの世界観に、バットマンというヒーローを落とし込んで、ダークでブラックなアート性溢れる異形の者たちの偏愛・変質性の作品に仕立て上げた映画だ。

 ミシェル・ファイファー演じる、キャットウーマンというキャラクターの持つ「女性」の多重性、死からの再生、ペンギンと「出エジプト記」の関係性という、語り尽くせない芳醇な世界観を提示した歴史的傑作である。

 次に衝撃を与えたのは『ダークナイト』(2008)である。数々の賞を総なめにした傑作であることは、これも間違いない。

 クリストファー・ノーランの、スタンリー・キューブリックや、マイケル・マンの犯罪映画からの引用で、バットマンという「コスプレ・キャラクター」を恐らくシカゴと思わせる「現実の」世界に落とし込む実戦から世界を構築したであろうと思われる。
 冒頭の銀行強盗のシーンでは、ウィリアム・フィクナーの出演からも『ヒート』(1995)へのオマージュを思わせる。

 特出すべきは、出自も分からず突如として産み落とされた、キリスト教圏にプリセットされた「絶対悪」である、ジョーカーである。アメコミ史でもジョーカーこそが最も人気で愛されるのヴィランであることは解説するまでもない。

 今更説明不要であるが、惜しくも撮影後にこの世を去ったヒース・レジャーの狂気を内包した怪演は歴史に残り、数々の人々を未だに魅了し、没後にアカデミー賞助演男優賞も受賞した。
 そこにはカリスマ的な、まるでミルトンの『失楽園』のような悪魔との闘いが描かれ、モラルを揺さぶるジョーカーの絶対悪の美学が描き尽くされていた。
 これは実弟であり、監督二作目の『メメント』からたびたびタッグを組む脚本家・ジョナサン・ノーランの、秀逸な脚本の功績が大きい。

 しかしながら、映画全体が世間で褒められるほどに、犯罪・スパイ映画としての側面でスマートか、と問われた時に、ノーランの敬愛する『007』シリーズほどのアクションの手腕もなく、「別にジョーカーの出ているところだけ観れば良いか……」となる一種の退屈さも残念ながら筆者にはある。

 その後、『ジョーカー』(2019)という、犯罪サイコ・スリラー映画が公開された。
 監督はトッド・フィリップス。
 アメコミ映画では異例の、ホアキン・フェニックスの「ジョーカーというキャラクターがアカデミー賞主演男優賞を受賞する」という快挙を成し遂げた大ヒット作である。ここでのホアキン・フェニックスのキャリアを考えると、素晴らしい演技であったことは間違いない。

 今作はロバート・デ・ニーロの起用からも分かる通り、『タクシードライバー』(1976)であり『キング・オブ・コメディ』(1982)といった、マーティン・スコセッシ監督の70年代の作品群を下敷きにしている。

 同時に、『ジョーカー』は、アラン・ムーア原作のグラフィック・ノベルである『バットマン:キリングジョーク』からの影響も隠せない。「売れないコメディアン」という設定の出自はここにある。

 『キリングジョーク』が、ジョーカーに出自の物語の金字塔であり、歴代のバットマン作品の中でも最高傑作に近いと考えられている。本作は1989年に「アイズナー賞・ベストグラフィックアルバム部門」を授賞していて、もはや揺るがない伝説の作品だ。

 鬼才アラン・ムーアの描き出そうとした世界は凄まじく、強姦、殺人、狂ったショウ……その末にバットマンはジョーカーを殺してしまうことを示唆して物語は終わる。あまりにもアナーキズムで、エクストリームな反モラルな作品である。(2016・アニメ化は失敗作)
 これも多義的に読み解ける作品であるので、ここでの言及はここまでとする。

 しかしながら、筆者は『ジョーカー』を高くは評価しない。
 あからさまなスコセッシからの引用で、『タクシードライバー』のトラヴィスという永久不滅の「アンチ・ヒーローの憧れ」が、ただ単にジョーカーに置き換えられているだけに過ぎないからだ。あるいは『キリングジョーク』の一線の倫理を超えた存在にまでは到達していない。

 ジャンル映画に過去の名作を引用してくるのは、大いに素晴らしい。それがクリエイションである。
 しかしながら、トッド・フィリップス監督の中で、オリジンの本質を咀嚼し作品化したか、と問われると「アメリカン・ニューシネマの焼き直し」と「キリング・ジョークからの設定の拝借」いう既視感溢れる作品でしかなかった、というのが筆者の見解である。

 だが、現代の閉塞感溢れる世界では、皆がジョーカーに共感し、その果てには一概には語れない社会問題だが、「ジョーカー男」という負の事件の誘発装置になってしまった側面もある。

 では『ザ・バットマン』は、これまでになかったバットマン像を構築できたのか?
 結論から言えば、エポック・メイキングな作品ではなかった。

 今回のバットマンは「探偵モノ」であるとされている。
 バットマンが「世界最高の探偵」である、同時に『解決ゾロ』(冒頭の遊ぶ子どもはここへのオマージュ)である、という二重性という設定は原作コミックの初期段階からイメージされており、今回はこの設定へアプローチした形になる。

 監督のマット・リーヴスは『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)や、『猿の惑星:創世記』(2011)で名を上げてきた監督である。
 この両者は「怪獣映画」であり、ある意味ではリブートではあるが「フランチャイズ映画」である。特に後者には『地獄の黙示録』(1979)へのオマージュを指摘する声も大きい。

 そして、『ザ・バットマン』であるが、これは鑑賞したのであればすぐに分かるのであろうが、まさしくデヴィッド・フィンチャー監督の描いてきた世界である。

 今回の作品のヴィランは、リドラーである。
 リドラーは「ビル・フィンガーとディック・スプラングによって創造され、“Detective Comics“#140(1948年10月)で初登場した。リドラーは謎、パズル、ワードゲームに取りつかれている。彼は「知的な優位性」を誇張するために、バットマンと警察に複雑な手掛かりを送って、予め犯行を警告することをしばしば楽しむ。この自己顕示欲の強い性格からリドラーの犯罪は派手で仰々しい。彼はドミノ・マスク、山高帽とスーツ、あるいはクエスチョンマークがちりばめられた緑のユニタードで登場する。黒、緑、紫のクエスチョンマークは、彼の視覚的なモチーフとして用いられている。」(Wikipedia・参照)

 長年の宿敵として愛されているリドラーをどう描くのか?
 ジム・キャリーのポップな緑の「?」の衣装に包まれたキャラクターをイメージする人が多い中で、全く斬新なアイディアを提示してきた。
 今回のリドラーは未解決の「ゾディアック事件」の犯人を基にしている。

 「ゾディアック事件」は、1968年から1974年にかけて、カリフォルニア州サンフランシスコ市内で、若いカップルを中心に少なくとも5名が殺害された。
 犯行後に警察やマスコミへ多量の「暗号」の犯行声明文を送りつけたことから、「劇場型犯罪」の一つとされ、最も有名な未解決事件である。これに影響を受けた映画は枚挙に遑がない(『ダーティー・ハリー』『エクソシスト3』……)。

 この「ゾディアック事件」を直接的に描いた一つが、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』(2007)である。
 本作のアプローチは「ゾディアック事件の真相」というサスペンス・ミステリよりも、事件にのめり込んでいく人々というカポーティ的な人間ドラマに重点が置かれている。

 同時に、フィンチャーは過去作では『セブン』(1995)といった「七つの大罪」に見立てて行われる劇場型犯罪のミステリや、女性ハッカーと組み連続殺人の真相と名家の繋がりの陰謀を追う、といった『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)という作品で高い評価を受けている。

 『ザ・バットマン』の監督・マット・リーヴスはあくまでも、リドラーの殺人・キャラクター造形は「ゾディアック事件」そのものからの引用である、としてフィンチャーからの影響を公言はしていない。
 また、バットマン/ブルース・ウェインの陰鬱としたキャラクターも、カート・コバーンからだとしている。
 Netflixでフィンチャーがドラマ化している、犯罪者プロファイリングを題材にした、さまざまな映画のネタ元の『マインドハンター』の原作からの影響は認めている。

 しかしながら、リドラーと「ゾディアック事件」、「劇場型犯罪」、セリーナ・カイル/キャットウーマンという女性を相棒にした名家の陰謀、退廃的に事件にのめり込んでいく青年・ブルース、『マインドハンター』……。
 酷似点はあまりにも多いので、この影響を否定するのは難しいのではないだろうか。
 恐らく、クライマックスでのリドラー逮捕後の面会室での対面のシーンから、『セブン』のジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)の自首を想起した人は多いのではないであろうか。

 前述したが、ジャンル映画に過去の名作を引用してくるのは、大いに素晴らしい。
 だがマット・リーヴスには、バートンやノーランの持っていた「作家性」がない。つまり過去の名作を咀嚼して、新しく組み替えることができていないのだ。
 それはフィンチャーの一連の作品の影響を自身で消化できていないとも言えるし、あるいは更なる往年の作品群、ビリー・ワイルダー、シドニー・ルメット、アンドレ・カイヤット、フリッツ・ラング、ニコラス・レイ……を「そのまま」模倣してしまう癖がある。
 これはトッド・フィリップスの『ジョーカー』にも同じことが言える。

 フィンチャーは物語構成の密度に対して、100回以上のテイクを重ねて最良のものを選び、映画を構築していく尋常ではない完璧主義の「整理魔」である。そのために、常に画面から不穏な空気が溢れ出し、なにもない空間でも緊張感が生まれる。

 フィンチャーと同世代のマット・リーヴスは、恐らく同じ作品に触れて生きてきた。
 そこで同じように先人の築いたオールド・ファッションな作りのハードボイルドにバットマンを落とし込もうとしたのは分かるが、プロットとテーマに対して釈が異常に長い。レイモンド・チャンドラーやドロシイ・B・ヒューズをベースにしていた時代からは、ミステリとしても世界観としても弱い部分があり緊張感が持続しなかった。

 物語は単にクラブと屋敷の一部空間の往復になり、豊潤な永遠に浸っていたいバートンのようなグロテスクな世界観の広がりもなかったし、リドラーの「なぞなぞ」も既視感に満ち、ノーランのジョーカーのモラルの揺さぶりに比べれば首に爆弾(あの火薬であれだけの爆発が起こるか?)など、クライマックスの想定の範囲内の地味さも相まって斬新ではなかった。
 その点からも前述した二作のように、エポック・メイキングになるのは難しい。

 残念ながらこれはアメコミ映画の弊害で、レイティングの関係なのだろうが、リドラーの犯罪行為に対して素直に「怖い」と思える直接的な残酷描写がないのも問題である。それだけに名優であるポール・ダノの渾身の怪演は惜しい。

 だからと言って、嫌いになれない映画でもある。

 そもそもライトになり過ぎたMCUに対して、ザック・スナイダー監督の一連の失敗から、DCのこういった硬派な映画的な作りで対抗していく姿勢は評価に値する。「バースに広げない」というマット・リーヴスの公言も、今後の続編への期待が持てる。

 ティーン・エイジャー的な陰鬱を演じ切ったロバート・パティンソンは、これまでのキャリアから新境地と、隠匿したブルース・ウェイン/二年目・バットマンに説得力を与えた。
 ミシェル・ファイファーの完璧なキャットウーマン像を前に、ゾーイ・クラヴィッツのセリーナ・カイルの「アメコミ然」としない、黒い強盗のようなマスクの立ち振る舞いも様になっていた。

 どこに行っても「フリーク」と揶揄されて不気味がられて嫌悪されるバットマンも、ある意味ではしっかり「コスプレの頭のおかしい男」として原点回帰している。それを見守るゴードン(ジェフリー・ライト)や、アルフレッド(アンディー・サーキス)もしっかり「探偵モノ」という世界観の構築に繋がっていた。

 「復讐」という、古き良き往年のハードボイルド小説のテイストに繋ごうとした功績は大きいし、自虐的にしか笑わないブルースや、コカインやヘロインを思わせるドラッグも抽象化して取り入れているし、腐敗した政治家や権力者の暗部の世界に入り込んでいく、とノワールが成功しているシーンも多い。

 キャットウーマンのバイセクシャルと、そのパートナーを殺されたことでの「復讐」の利害関係の一致と愛で動く行動原理とその末路、バイクのラストカットの余韻も味わい深く見逃せない。

 「変身」という点に着眼し、ブルースが目の周りだけを黒く塗り動き回り、キャットウーマンのレザーのコスチュームに着替えるシーンをじっくり写すのも見所である。

 また、これまでに散々やり尽くされてきたバットモービルの造形も、アメリカン・クラシックカーにする、という点も素直にファンをニヤリとさせられる。

 弾丸を受け付けないバットスーツによって、闇の中で狂ったように銃弾の嵐に突入していく戦闘アクションと、マズルフラッシュで見え隠れする姿は惚れ惚れするほど斬新でカッコ良い。

 ベタな作品で語れば『第三の男』(1949・キャロル・リード)的な50年代のフィルム・ノアールの一連の作品へのファン、『バットマン:イヤーワン』的なフランク・ミラーなどのグラフィック・ノベル・ファンへの目配せもできている。
 それ以上に「バットマン映画」として、我々のファンダムな気持ちを満足させてくれるだけのサービスは十分にある。

 今後は、マフィアのペンギンのスピンオフ・ドラマが、『スカーフェイス』(1983・ブライアン・デ・パルマ)を基にするのだそうだ。
 これからの鑑賞者は、

「元ネタを知っていて楽しめる人」
「元ネタを知っているのでつまらない人」
「元ネタを知らないので斬新な人」

と分岐していくのではないであろうか。
 もはや筆者が「老害」なのかもしれないが、さまざまなHip-Hopのギャング・スターが、己の人生と重ねて心の拠り所とするトニー・モンタナに、どう足掻いてもペンギンではなれない。そこから原点を引っ張ってくるのは流石に期待できない。

 しかし、ノーランの三部作の第一作、『バットマン ビギンズ』(2005)がお世辞にも成功作であるとは言えなかったが、その後に傑作を生み出したように、今回の『ザ・バットマン』も次回のジョーカー登場へ向けての「地盤造り」になることを期待する。

 最後に余談ではあるが、『ゾディアック』の最も「恐ろしい」シーンは湖の麓でカップルが殺される場面だ。
 そこでは全身黒ずくめの男がぼんやり現れ、淡々と殺人をこなしていく。それが絶妙なカット割で表現され、とてつもない緊張感と異様さを生み出している。
 今回のゾディアック≒リドラーも数々の劇場型犯罪を繰り返すが、デヴィッド・フィンチャーがたったワンシークエンスで描いてしまった、凄まじい恐怖に達していないのが残念で仕方がない。

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