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カツカレーを素直によろこべない大人になっていやしないか。
子供の頃、とんかつやハンバーグにカレーがかかったプレートを前にすると、テンションが爆上がりしたものです。とんかつだけでもワクワクが止められないのに、ハンバーグだけでもよだれが口の中に溢れるのに。さらにカレーがかかっている、だなんて最高にもほどがある。好きなものと好きなものが一緒くたになって口に入ってくる。歓喜。パンケーキにアイスクリーム、ソーダフロート、苺大福、あたりも同じ範疇でしょうか。
さて、いけばなです(僕は花道家です)。
右手にお気に入りのうつわ、左手には大好きな旬の花。
これって上の状況に似てませんか?
事実、子供たちに好きなうつわと花材を選ばせると、この時点で控えめに言っても嬉しそう。そして選んだうつわに各自頃合いに切った花をいける。1本、また1本と己の満足に向かって手を進める。眼差しは真剣そのものです。
そして完成とみるや「見て〜! すごいでしょう? じょうず?」とよろこびとと満足を爆発させつつ見せてくれるのです。「お〜、すごいね〜、上手にいけたね〜」と一声かければ満更でもなく満面の笑み。
疑いようもなく以下の式が成り立っています。
好き+好き=大好き(純真無垢)
ところがお稽古に来る、あるいはSNSでコメントくださる大人はどうでしょう。
「大好きな作家さんの一輪挿しを買ったんですが、どうも上手にいけられない」
「お気に入りの花屋さんで可愛い花を買っていけたのだけれど、なんか違う」
といった具合です。こんな時にはまず、
「大好きな一輪挿しにいけた花はうつわと同じぐらい好きな花材か?」
「出合えた可愛い花をいけているうつわは花と同じぐらいときめくものか?」
を見直してみるのがよいと思います。
これで 好き+好き=大好き の方程式が成り立つはずです。
…ええ、ここを整えたら、大好きを前にしたよろこびが自然と溢れてくるはずだったんです。笑顔が見られるはずだった。なのに。
「なんか違うんですよね。しっくりこない。」
…なんででしょうね? 好き+好き=大好きの成立要件(無邪気)を考える場合、細部にまで目を向けない、思いを寄せない、ということがポイントかもしれない。
ここで再びカツカレーに立ち返って考えてみましょう。
カツにカレーがかかってる。
うん、間違いない、この字面だけで恥ずかしながら生唾ごっくんできてます、私。
頭に浮かんだビジュアルはぼんやり。
白い皿、カツとご飯にカレーがかかっている、程度。
しかしひとたび細部に目を向けるとどうでしょうか。
カツは豚なの? 牛がいいかな? チキンだって悪くないかも? 豚だったらヒレがいいかな? それともロース? 揚げ油はラードかしら、それともごま油…は香ばしさが邪魔しちゃう? 菜種油じゃ変哲もないわよね。衣は…といった具合。そして同じようにカレーは昔懐かしい家庭のカレーでいいだろうか、インドカレー、タイカレー、欧風もあるな。ドロドロ? さらさら? 具材はくたくた? 固形? 云々となってくるわけです。果てはお米もうるち米かバスマティライスか。産地や銘柄どうかな、単一かブレンドか、ブレンドならあそこのお米屋さんにお願いするかとかとか。そして炊き具合にまで思考が及ぶこともあるかもしれません。
はぁはぁ。
*いまさら念のため申し上げますと、「カレーをかけると衣がしんなりしちゃうから、カツは塩で食べる派です。」といった類の話は、今この場に於いては欠片もしていません。僕は塩で食べるのも好き、ソースで食べるのも好き。ロースだから塩、しかも岩塩、なんてこだわりもなく気分で食べ分けています。
こだわるほどにそれぞれの階層で下へ下へと進み細分化されていくわけです。まるでグルマン沼です。一度踏み込んだら抜け出せやせず、ひたすらハマった、沈んだものだけが、理想のカツカレーに出合える。労を厭わぬ没入感(趣味)、あるいは商いレベルの覚悟が必要となります。こうしてカツカレーを構成する要素ひとつひとつは吟味され、調理の工程を経て口に入ってくる至極の味わい。
しかも理想のかたちは一つではありません。趣味であれば季節や体調、その日の気分によって組み合わせを変えることとなるでしょうし、商いであれば、お客さんのニーズを満たすためのヴァリエーションを用意する必要もでてくるかもしれない。そしてそれは進行形で深度を下げつつさらに進化する類い。
果てなきカツカレージャーニーです。
食の素人でありながら、パッと思いつくかぎりで上記、具体的な落とし込みとしての食材あるいは調理法などが浮かんでくるのは、毎日3食とっているからこそ。経験値の賜物。何もつくるばかりでなく、食べることも立派な経験。そしてこうした経験は、カツカレーに限らず食に限らず、ファッションや住空間その他、専門職となさっていることなどなど、およそ生活に関わるシーン全てにおいて日々コツコツと育まれているものです。己を基準とした価値体系がかたちづくられている、ともいえるかもしれません。
再び話を花に戻しまして、大人はこのグルマン沼、カツカレージャーニーのような存在が花にもあるということを知っている。これが満足に届かぬ感情の足かせになっているわけです。子供みたいに好きなうつわに好きな花をいけただけで喜ぶなんて恥ずかしい、なんてどこかで思ってる。いけばなという言葉にルールや作法が含まれていることを漠然と認識している。ゆえに、ルールを知らぬ私のいけた花なんて、といった具合に思考が進む。
結局何が言いたいのか、と言いますと、一度こうした思考の足かせを外してみませんか、ということです。「カツにカレーがかかってる、最高だ!」と歓喜した童心に帰って花に向き合っていただきたいということです。せっかく好きなうつわに好きな花をいけたのに、フラストレーションを感じてしまうのはもったいない。素直な足し算として、満ちた心持ちになれたらいいんです。ひとまず。
そもそも、手にした花材は、植物の進化の過程でそれぞれの周辺環境に適応した土地の記憶ともいえる存在。また同時に根を張り芽を出して以降、種をつなぐために自然の摂理にしたがってかたち作られた究極の機能美とも言える存在です。安心して身を委ねられる大きな存在です。「なんとなく」なんて答えしか導き出せない感性(経験値)が、自然が生み出した機能美に叶うはずがないのです。疑うべきは目の前の作品ではなく、自らの感性。
「なんとなく違う」なんて思うのではなく、そのままを積極的に素敵素敵と受け入れる方が、心の安寧、しあわせに近づける気がしています。そうして飾るうちに、経験値は蓄積され、新たな疑問が生まれて「なんか違う」と覚えた違和感の正体に、近づいていくはず。
解決法は僕の教室でぜひ。オンラインレッスンも行っています(PR)。
徐々に花を扱うことに慣れていく。花材にハサミを入れることに躊躇いがなくなっていく。花を飾る、鑑賞するよろこびが広がりをみせる。もっとも、こうしてストレスなくいけられるようになったところでそれは、自然の姿からちょっと自分好みの姿に近づいたに過ぎないわけです。客観的にみたら特段の意味を持たないかもしれない。それでも自分の部屋を彩る花ですから、少しでも自分に近づいた姿でそこに佇んでいてくれたら嬉しい、ということは紛れもない事実です。(お終い)
以下は子供たちがいけた花です。
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