今の時代をいけること。
いけばなの礎を築いてこられたような著名な華道家にできなくて、僕ができることがあります。それは今の時代をいけるということです。橋渡しにすぎませんが。
生を扱ういけばなは、いつの時代も進行形でいけられ消えゆく存在です。この点においてモダンいけばな、という響きはどこか異質に聞こえます。つねにいけられた花は現代のものであるはずだからです。
もっとも、植物そのものには命の限りがありますが、その命を際立たせるために生み出された花型は時代を超えて継いでいくことができる。こうしていくつも定められた花型は流派の個性として、哲学として、教え広められてきました。
おそらくこれです。モダンだ古臭いだと言われているのは。
いや、言っているのは。
そして花型以外にも、花材の選び方や当代の美意識を写したうつわだったり空間の室礼だったりと、いけばなを今のありようで感じさせる要素はあります。
兎角お稽古ごととして花に向き合っていると、流派の用意した指定の花器に、お抱えの花屋さんが用意した花材、場合によっては味気のない稽古場、なんて具合に時流を外した要素で花をいけることが当たり前となりすぎてしまいます。
これではお稽古のたびに、昭和の気配を自らに刷り込んでいるようなもの。今、自分がお稽古で触れている要素はいつの時代に指定されたものでしょうか。ここに思い巡らせるだけでも、自分なりの軸を作ることができます。またもし、自分がいけた花が(技術的に未熟である点を差し引いて)しっくりこない、なんてことがあったとしたら、繰り返しになりますが今一度この点を見直すとよいと思います。
ただもちろん、
昔から愛でられている花材を使ってもモダンに見せることはできます。
骨董、古美術品をうつわに据えてもモダンに見えることはあります。
古くに定められた花型をいけても、モダンな空間を演出することはできます。
床の間にいけたって、モダンな気配を醸し出すことだって、当然できます。
結局自らというフィルタを通して、今の時代をいけるほかないのです(お終い)。
#ととのえるいけばな #EYESOFIKEBANA