占領下の抵抗(注 ⅷ)

アイデンティティの拠り所としての母語の可能性について、例えば『言語学と植民地主義−ことば喰い小論−』[54]ルイ=ジャン・カルヴェ

自分の言語を話すことは一種の抵抗行為となる。大多数の植民地原住民にとって社会体制が理解不可能であるのと同様、大多数の植民地支配者にとっては彼らの言語は理解不能だからである。そしてこの抵抗は、形式的独立を隠れ蓑に新植民地主義がことば喰いを継続するとき、言うまでもなく継続されるのである。

『言語学と植民地主義−ことば喰い小論−』砂野幸稔訳 [54]

という力強い言葉を思い起こす事ができます。
しかしこれは実際に植民地化され、外国語を強制された人々の必死の抵抗の姿であり、日本のようにそのような強制が起こらなかった国の想像の中で可能性として考えられるようなものとはやはり違います。
それはガンジーの自伝にある次のような言葉と相まってこそ、意味を持つものであることを忘れてはならないでしょう。

祝いの言葉を言われ、また、総督主催の会議でヒンドニスター語を話したのはわたしが最初だったことを知って、わたしの民族的自負心は傷つけられた。わたしは肩身の狭い思いをした。自国の言葉が、自国に関係することのために自国で開かれる会議で使用禁止になるとは。またその席上、わたしのような一介の心定まらない者によって、演説が自国の言葉、ヒンドニスター語で行われたということが慶賀に価するとは、なんという悲劇であろう。このような出来事からみても、私たちがいかに低劣な状態に落ちこんでいたかを思い知らされる。

『ガンジー自伝』蠟山芳郎訳 [47]





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