占領下の抵抗(注xxix)[徳田秋声と志賀直哉について]
「病床にて」の中で徳田秋声は
と言っている。
「あらくれ」[1915年(大正4年]のような当時の日本を代表する言文一致体の小説を書いた徳田秋声のこのような発言は、当時の多くの人にとって、国語(標準語)・言文一致体がいかに困難なものであったのかをうかがわせる。
大杉重男は「森有礼の弔鐘 ー 『小説家の起源』補遺」の中では、上述した徳田秋声の発言を他の発言と合わせながら
とし
と志賀と並べて論じている。
しかし志賀直哉よりも10年以上早い明治4年(1872年)生まれで、金沢で子供時代を過ごした秋声と、当時の日本で例外的に標準語に近い言葉を話していたと思われる東京の山手で育った志賀とを同列に論じて良いものだろうか?
それは拙論の中で論じたように、志賀を育んだ言葉にも多様な要素があり、東京の山手の言葉と単純に括れない側面があるとしても、なお志賀と秋声の間の懸隔は決して小さくはなかったのではないかと思われる。
柄谷行人は「文学について」のなかで
と述べた後で
と述べている。
徳田秋声にとって標準語・言文一致体は、このような
であったであろう。
そのような要素は、志賀直哉にとってももちろん皆無ではないが、拙論で論じたように他地方に住んでも東京の山手の言葉を守り続け、言文一致をさらに研ぎ澄ませていった志賀の感じた国語(日本語の標準化)に対する困難は、徳田秋声の感じたものとは、相当に異質なものだったのではないかと思われる。
正宗白鳥の例を上げながら
と論じ
を云い
とする大杉重男の議論は確かに一面の真理をついているかもしれない。しかしそれは先に述べた志賀と秋声の違いと、志賀の発言が戦後まもないGHQの占領下に発せられたことの意味合いを無視したものであり、少なくとも志賀直哉に関しては、行き届いた議論であるとはいえない。
大杉が述べているように
のは確かであろう。
しかしそのようなにして生まれた国語は、それが定着すれば、多くの人にとって自然なものに感じられるだろう。それを自然なものとして捉える目から見れば、徳田秋声の発言は奇異なものに映るだろう。
志賀直哉の感性は、国語を人工的なもの感じる徳田秋声のような人と自然なものと感じる人との中間に位置するように、私には思われる。
引用文献:①「徳田秋聲全集」第20巻(随筆・評論Ⅱ 大正4年〜大正14年) 2001.1.18.初版発行
著者 徳田秋聲
発行所: 株式会社 八木書店
引用した本書所収の「病床にて」の初出は大正9年4月1日「新潮」
②「重力01」初版第一刷発行 2002年2月28日
発行者: 「重力」編集会議
発行元:株式会社 青山出版社
P234. 大杉重雄「森有礼の弔鐘 ー 『小説家の起源』補遺
③ 新版 夏目漱石集成
2017.11.16.第1刷発行
著者: 柄谷行人
発行所: 株式会社 岩波書店
引用した本著所収の「文学について」の初出は「國文學」1978年5月号
この記事は↓の論考に付した注です。本文中の(xxix)より、ここへ繋がるようになっています。