僕が保育園児の時「脊髄小脳変性症の母と生きる。」
僕が保育園児の時
僕は兄、姉がいる末っ子で母が大好きでした。しかも末っ子だからという理由で、末っ子の特権だと勝手に思い込みわがままし放題でした。母は一番僕に手を焼いた事でしょう。でもその分一番可愛がってもらったと思っています。
例えば4個くっ付いたゼリー、3人兄弟で分けると1個余りますが、必ず母は内緒で僕だけに「食べり」とくれました。
保育園に連れていかれた時は、母と離れたくなくて、保育園の玄関で、周りが引く位大暴れして、母親を困らせた事もありました。
保育園の遠足の時は当時キャラ弁なんかありませんでしたが、弁当の中には母の手作りおにぎりが入っていました。口が紫蘇で付けた真っ赤な梅干し、海苔で髪の毛と目を作った不格好な男の子のおにぎり。不恰好で特別味付けしてるわけではなかったけど、とても気持ちがこもっていて美味しかった記憶があります。
一番記憶にあるのは、チロルチョコ事件です。ある日、チロルチョコのバラエティパックを母が買ってきてくれていました。あとで僕も食べようと思っていたんですが、兄、姉が先に食べていて、一番大好きな牛のマークがついたミルクチョコが無かったんです。
もちろん僕は大泣き、大騒ぎするわけです。見兼ねた母は夕方暗くなって二人で近所の坂本という駄菓子屋さんに連れて行っくれててミルクチョコだけが入ったチロルチョコの箱を買ってくれました。
帰りはもうすでに真っ暗。わがままな僕は眠くなって母におんぶをねだりました。1kmはある帰り道をおんぶしながら帰ったんですが、そんな母の背中は暖かくて、どんな高級ベッドよりも気持ちよかったのを覚えています。
その時が母にしてもらった最後のおんぶで自分がこれからおんぶしてあげる方になるとは想像もせず、僕は母の温かい背中でぐっすり寝ていました。
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