「今の若い人って行動力がすごいですよね、尊敬します」などと言った瞬間、会話が続かなくなった理由がなんとなく分かったような4月の始まり。
人と会って話し、とても楽しい時間だったのに、別れた後にホッと一杯お酒を飲む。
そんな時間が何より楽しみだったりする。
そのくせ、別れに対する耐性がないのが私だ。
約4ヶ月一緒に働かせてもらった、とても頼りになる陽気な上司や仲間と別れの時がきた。私を受け入れようと、馴染ませようと、どれだけ心をつかってくれたかが十分過ぎるほどに伝わってきた4ヶ月だった。
心細い。
これだけ泣いてしまうということは、それだけ私は楽しく苦しかったのだ。
これまで、楽しかっただけの日々、苦しかっただけの日々に涙したことはない。
「ぐぬぬ…」と思ったり
「早く仲良くなりたい」と思ったり
「早く力になりたい」と思ったり
「わかってほしい」と思ったり
「わかったふりをしたものの、あれはどういう意味だったんだろう」とこっそりググったり
「期待に応えたい」と思ったり
「でも私はやっぱりこう思う」と伝えたり。
がむしゃらで自分でも気づいていなかったけれど、確かに心細かったはずのこの4ヶ月の間、一緒に心を重ねてもらった時間の分だけさみしさがとまらない。
一緒に過ごした時間が誰よりも少ない私が号泣するのも恥ずかしくて、「ありがとうございました」と小さく頭を下げるしかできなかったけど、両耳の下が痛くなるほど涙を我慢していたら、頭を下げた時に鼻水が止まらなくなった。
ありがとうでは物足りないけど、その後ろの想いは、やっぱりぐるっと包んでありがとうでしか表せない。
帰宅後もしんみりしていたのだが、否応なくやってくる4月からの自分を奮い立たせたくて、励ましたくて、4月1日は滋賀県日野町で開催される「夢見るマルシェ」に行くことにした。主催者は全員が20代前半とのこと。
イベントの告知文には
「4月1日、はじまりの日。新たな夢の種が芽吹く日にしたいと思います。」
とあった。
出店するのは小学生〜高校生・大学生の若者や、まだ出店経験があまりないフレッシュな方々とのこと。
「新年度一発目に訪れるイベントに、夢見るマルシェを選んで欲しい。」
心の中をストレートに表現できない私にとっては、正直にいうと少し気後れしてしまうほどに眩しくてまっすぐで真摯な告知文だった。
夢を持った若者が集う場所に自ら進んでいくのは初めてのこと。
これまで子どもたちと接することは多かったが、「若者」という言葉がでてくると緊張している自分がいた。
若者とはなんなのだろうか。
自分がどのタイミングで子どもから若者になり、どのタイミングで若者ではなくなったのかさえも気づかないままに過ごしてきた私は、これまで「若者」とディスカッションする場所に呼ばれる機会があったりすると、どうにも落ち着かなかった。
きっとそれは「若者」と呼ばれる人の具体的な顔が見えないからなのだと思う。
「若者」に対してのイメージはぼんやりとあるのだが、そのイメージしている「若者」に会ったことはまだない。
何に心が弾み、何に嫌悪感を抱き、どんな食べ物が好きで、笑いのツボはどこにあって、ちょっと自慢したいこととか、笑い飛ばして欲しいような黒歴史とか、一人一人違うのはとても当たり前なわけで。
「母親」という言葉がもつイメージにかつて自分も苦しんだことがあるように、「若者」もそうなのかもしれない。
実態のないものとディスカッションしようとしたならば、それはソワソワもするだろう。
そういえば、若者としてではなく個人としてなら、たわいないこともわちゃわちゃ話せていたのに、「今の若い人って行動力がすごいですよね、尊敬します」などと言った瞬間、会話が続かなくなったり、なんとなく壁ができたりしていた。
今日、夢見るマルシェで会った「夢を持った若者」は、若いから応援したいとか、これからの日本に期待が持てるとかそういうことじゃなくて、お茶でも飲みながらお互いのことを、未だに悩みとか煩悩まみれな一人のアラフォーの姿をさらけだしながら、ポツリポツリ、時にわちゃわちゃ話してみたいような、素敵な素敵な個人だった。
行ってよかった。開催してくれてありがとうと思った。きっともう、ソワソワすることはない。
寂しさとか不安とかを肥料にしながら、新たな夢の種が芽吹くような4月の始まりだ。