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「下積み」という罠

「下積み」という言葉が存在する。

お笑い芸人とかによく用いられる語で、この「下積み時代」に技を磨いたことによって出世に成功するというような印象があると思う。


だが僕はこれについて些か懐疑的だ。

というのも、世にはの「下積みを経てもうまくいかなかった人たち」が沢山居る。僕も将来そうなるうちの一人であろうと思っている。

中には愚直な下積みによって得た糧で成功した人も居るのかもしれないが、下積みと成功に因果関係を見出すのはちょっと問題がある気がしている。

下積みでウケないことをし続けていたが、方向転換をして成功するという流れがあると思うのだが、そもそも方向転換をもっと早くしていればすぐにでも売れたかもしれない。


「おいおい、これがウケないってことが分かったという獲得物があるのだから下積みは無駄じゃないだろ」という意見も出るだろう。

たしかに、数ある発想の中から一つずつ試していくことには意味はあるだろう。下積みは試行錯誤の過程であると言える。でもその方向転換をなかなかできないでいる人も沢山いるのではないか。

私がここで提言したいのは、「下積み」にも性質があるということだ。

ひとつは「ただひたすらに同じことを繰り返す」という下積みである。
僕が本稿で無駄なのではないかと感じる「下積み」がこれだ。
例えば、ひたすらに読まれもしない日記を更新し続ける、という営みがこれにあたるだろう。まさしくこれを行っているのは僕なので、この「下積み」の無駄さを痛感している。

もうひとつは「いくつもの形式を短期間で試して、上手くいったことを続ける」というものだ。

前半の「いくつもの形式を短期間で試」すという部分が下積みの本質的な部分になると思う。後半の「上手くいったことを続ける」はもう既に成果が出ているとも言えるが、その成果が不十分である場合には下積みとも呼べるかもしれない。

つまりは、「下積み」にも良し悪しがあって、前者の下積みを行った場合には結果が出づらいのではないかと感じているわけだ。

「え、当然じゃね?」と思ったかもしれない。

はい、僕は今とてもふつうなことを言っています。

ふつう過ぎる。

でも、実際には「前者の下積み」という営みにあぐらをかいてしまっているひとは僕含めてとても多い気がしている。

ウケてないことを続けていても、長期間行っていればなにか報われるのではないかと錯覚しがちだ。


10年日記を書き続けていたらなんだかすごい気がしてしまうかもしれない。

でも皆さんは10年日記を書いている人の日記を実際に見つけて追ったことはあるのだろうか。追っていないだろう。そもそも10年更新しているやつのことを知らないだろう。僕も知らない。なぜなら10年更新していようがそいつのことにまるで興味がないからだ。知らないやつの日記はただ、知らないやつの日記でしかない。

前者の下積みを便宜上「質の低い下積み」とする。この「質の低い下積み」は、行為者に「従事する喜び」をあたえる。「僕は三ヶ月日記を続けている!すごいだろ!」という勘違いを生む。これは恐ろしい陥穽である。

これは安部公房『砂の女』におけるあの砂穴のような、巨大な落とし穴だ。



なにかに対してがむしゃらに努めるという行為が目的化してしまって、「下積み」という営みに溺れていってしまう。

僕自身、この罠にめちゃくちゃ嵌まりやすい気質をしている。僕はグラブルを始めたら周回している自分に自惚れさえしてしまう。毎日更新している日記にしたってそうだ。僕の日記の閲覧数は雀の涙ほどだし、質問箱にも日記に対して肯定的な言葉が来ることも少ない。ほぼないと言ってもいい。代わりに「きしょ」とか言われている。

「日記を書く」という行為には「自分の思考を言語化して排出することで整理する」という目的も勿論あるのだが、ネットに公開している以上は読み物としての機能を果たすことを望んでもいる。

でも最近では無意識的に「日記を書く」という行為自体が目的化してきて、怠惰に日記を続けていくことに満足してしまっている節がある。ウケたいという気持ちもあるのだが、日記を書くことで「既に尽力している」と勘違いしていしまっているような気がしてならない。

「質の低い下積み」の逆である「質の高い下積み」=「試行錯誤」は、ある程度意味のある行動だと思う。同じことを繰り返すよりも、自分の表面積みたいなものが圧倒的に増していくはずだ。

さて、ここで「下積み」の意味について見てみる。

 他の物の下に積むこと、積まれること。また、その物。⇔上積うわづみ
 自分の能力を発揮できないまま低い地位や立場にあること。また、その人。「下積みの苦労が長かった」「下積み生活」
小学館 デジタル大辞泉


言葉というものは文脈や時代によってその捉えられ方の変わるものであるから一概にこれだと表現することはできないが、2の意味を参照した場合には「下積み」とはただ結果の出ない時期のことを指している。

人口に膾炙している「下積み」は、寿司職人に向けられる視線を考えるとわかりやすい。何十年も修行する必要があるみたいな認識が「下積み」を肯定的に見るような風潮を育ててしまっている。
最近ではそれが馬鹿馬鹿しいと言われるようになっても来ているのだが、やはり依然としてこのような風習は個人や集団の中に残っている。
このように考えると「質の高い下積み」という試行錯誤的な行為は、最早「下積み」とは異なる、大別できるものとして捉えられるだろう。

このような「下積み」という生真面目に長期的すぎる展望の元に思考を放棄して同じことを繰り返すという営みは、危険な砂の穴であり、それ自体の目的化によって従来の目的を見失ってしまう。それで良いのだと思う場合にはそれで構わないのかもしれないが、ふと我に帰ったとき、僕たちはその停滞を憂うことになるかもしれない。


そろそろ結論を述べるとしよう。

自分がいま行っていることが「下積み」である場合には、もしかするとその営みは停滞したものであるかもしれない。自分の行動が「下積み」的であるかどうか、今一度確認してみよう。

その営みがすでに自分にとって十分満足できるものであるのかを考えてみる。

例えばストリーミングをしていて、視聴者数10人であることに不満を持つか否かは人によって異なる。物足りなく感じるかもしれないし、十分だとも思うかもしれない。前者の場合にはリスナーに内輪の人間しかいないかもしれないので、より外部に向けた働きかけが必要になる。後者の場合にはすでに目標を達成しているので、それをやっていけば幸せであると思う。


因みに、僕の今日のApex配信の視聴者数はゼロだった。

満足しているわけがない。内輪の人間すら居ないのだ。

僕は憤慨した。「お前らふざけんなよ」と見当違いなことさえ思った。

そして今の自分の配信は誰も見なくて然るべきものだということを強く認識し、見てもらうための術を考えているところだ。
これ以上、誰も見ていない配信を続けることは苦行でしかない。

傍から見れば、そんな状態で配信をするのは馬鹿馬鹿しいことであるが、場合によってはそれでも配信をし続ける人というのは居るだろう。
僕にしたってそうだ。誰も見ていない状態で1時間、ひとりで喋っていた。

そしてその行為の無駄さを痛感して、今このようなnoteを書くに至ったというわけである。

これはウケが悪い、とすぐに判断することができていれば無駄な時間を割くことは免れるはずだ。

「下積みだから」と費用対効果の悪いことを続けるのはほとんど百害あって一利なしだ。結果はあまり出ないし、精神はひどくすり減る。

一発でウケることができるなら、それが一番だ。「下積み」という見たときにわかりやすい「頑張ってます感」に魅せられがちだが、その期間が短くても全く構わないはずだ。

対戦ゲームにしてもそうで、生真面目に取り組んで身に余る技術を会得しようとしたり、様々なアドバイスを真に受けて取り入れようとしてしまうと、うまくいかなかったときに結果としてモチベーションも失いやすい。
それよりは初見殺し的な技で勝っていってそれが通用しなくなってから別のアプローチを考えるという方が結果として高いランクに到達しやすいだろう。

(注意:ここで「生真面目プレイ」or「強い技押し付け」と「下積み」or「試行錯誤」というふたつの二項対立は全く違う話なので、勘違いしないように気をつけてください。一見すると「生真面目プレイ」=「試行錯誤」となりそうですがむしろ逆です。うわ、この例、話がこんがらがって良くないな。失敗した。)

まだ芽の出ていない発信者乃至クリエイターたちは、下積みなどさっさと打ち捨てて、頭を使って手練手管の限りを尽くし、自分のコンテンツを発信していくべきだと思う。
それをしていくことで必ず報われるということは確約できはしないが、少なくとも「下積み」ではなく「試行錯誤」という、「下積み」とは性質を異にした営みへと移ることができるのではないだろうか。


まぁ、捉えようによってはそれが「下積み」なんですけどね。つまりは「下積み」の意味を見直そうということです。

締りは悪いですが、みなさん頑張っていきましょう。


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