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【書評】ねじまき鳥クロニクル 真正面からの「悪」との対峙 僕らは本当の意味でこの小説を「読む」必要がある
村上春樹氏はこれまで多くの小説を執筆してきたが、そこには同一のモチーフが用いられることがしばしばである。
全三部からなる長編『ねじまき鳥クロニクル』もその例に洩れず、主人公のもとから女(それは交際相手であったり妻であったりする)がどこかに消えていってしまうという体裁をとっている。そして彼らは彼らを導く流れのようなものに従いながら、女の帰還を待ち、ときには現実から離れて「あちら側」に行き、連れ戻そうとする。
こういった物語の展開というのは特に類似するものとしては『ダンス・ダンス・ダンス』や『騎士団長殺し』が挙げられる。他にも部分的に似たようなものは存在するが、とくに上に挙げた作品は『ねじまき鳥クロニクル』とかなり近い小説であって、これらを読み比べてみると面白いかもしれない。
ただ、そういった村上春樹氏の作品の中でも特に「暴力」と「セックス」と真っ向から対峙し、「悪の根源」にコミットしているのが『ねじまき鳥クロニクル』である。「僕」の周りでは様々な事象が生じ、あらゆる人々——ある者は「僕」を導き、ある者は「僕」に警告する——が現れる。それらを通じて「僕」はなにかを獲得し、損ない、痛みを伴いながら時代や現実世界という壁を抜けて妻を取り戻そうとする。
村上春樹氏はストーリーという巨大なメタファーやそこに含まれる象徴を通して、読者に訴えかける。それは小説という形で、メタファーという形でしか明確には伝えられない種類のものである。読者である私たちはそれをほんとうの意味でこの小説を「読まなくては」ならない。
村上春樹氏の作品に対してかかっている陳腐なバイアスは、「読む」ことのできていない人々の軽率な印象から生まれているものだ。パスタを茹で、酒を飲み、冗長で気取った会話をし、頻繁に性交しては「やれやれ」と言っているだけの小説である、というのが彼らの感想なのだ。
彼らは日本語教育を受けていながらも、彼らは日本語で書かれた小説を読めていないのだ。そしてそういった人々というのは今の世の中においてはマジョリティに属し、更には無意識のうちにこの小説に描かれているような、社会のシステムという大きく強固な壁の側に立っているのだ。
それはたしかに嘆かわしいことであるかもしれない。ただ、ひとは成長することができるし、変わることができる。その足がかりのようなものとして、この小説は機能するかもしれない。それを読み解いていくうちに彼らは(あるいは「あなた」は)どこかで過去の自分の姿を見ることになるかもしれない。
そうしたときにこの小説を手に取った者はほんとうの意味でこの小説を「読む」ことができたと言えるだろう。そして、村上春樹氏がエルサレム賞受賞の際に行ったスピーチで述べたように、僕たちもまた、堅牢なシステムの壁にぶつかっていく卵の側に立つことができるだろう。