死が近づくと見え方はかわる博物館


内藤礼さんの作品を観に行った。と、同時に常設というのか、東京国立博物館所蔵の紀元前から現代近くまでの美術品を見て回る。
その結果、大いなる時間、歴史の情報量に酔う。
さらには、その前には「アイドルと芸術7」という毎年恒例ともいえる展示をみていた。
そこでも普段のアイドルたちの姿とは、また大いに違う一面を感じる作品を観ていただけに、酔う素地は出来ていたのかもしれない。
そもそも、わけのわからない内藤さんの展示を媒介にして、豊臣秀吉の書簡などをみると、自分がなまじ、歴史番組の仕事などを近年多くしていることもあり、そしてなにより自分がもうすぐ歳をとりまた一歩、50歳に近づいていくことも大きくあるのだけど、歴史や、大きな時間のなかに含まれること、ということが、ある種の快楽というか、1000年前の木彫りの仏像や刀を見るときに、自分も近い将来、死んで、そのようなものたちと同じ過去に組み込まれるのかと思うと、ゾクゾクするような、単なる展示品とは違う感覚に襲われる。長い時間のなかで残ってきたものの凄みというものは、やはりそれなりに年をとらないと生理的に感知できないのかもしれない。作り手や持ち主が死んでも残り続けたものたちの一種の怨念ということもあるのかもしれないが「残り続けていること」そのことに感じいることは大きい。
美しい火焔土器の出土場所が新潟県長岡市というだけで、自分の母方の故郷が近いものだから、その土器と自分は関係のあるものとさえ思ってしまう。年取った自分はもうどこかで自分を長い歴史の一部にどうにか組み込みたいのかもしれない。組み込まれたい。
それは、自分がどんどん死に近づいていて、歴史に近づいているということだろうけど、若い頃とはまったく博物館に置いてあるものへの気持ちが違う。

そういえば「アイドルと芸術7」で、ダダダムズのkimiさんの作品が、すごいインパクトで、びっくりしちゃった。植物と心象をすごく感じた。
なにかを作る事は、それが1000年後、万年後に残り続けているかもしれない可能性を作る事で、死を避けられない人間の抵抗として、ひたすらに作る事は、ほとんど生きる事、産まれてしまったこととイコールなのではないか。
産まれたからには、なにか残してやる、みたいなことを博物館にあるすべての所蔵品から感じるとしたら、相当に酔う。泥酔する。
そういう意味ではすべて呪物みたいな気もしてくる。
でも、とにかく産まれてしまったからには、残すことしかできないのが、生き物の宿命ではある。

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