「これが私の貴族。」ー娘から教わったことー
それはまだ次女が小学生だった時の、ある春の夕暮れのこと。
学校から帰宅した次女が私に尋ねる。
「本読んでるの?」
「うん」
私はその時、とある心理療法士の書いた、感受性に関する本を読んでいた。
「音楽かけてるの?」
「うん」
聞いていたのは、雨にまつわるクラシックを集めたコンピレーションアルバム。
「それで何か食べてるの?すごいね。」
「うん。あとビールも飲んでる。…ん?……すごい?
言われてみると私、貴族みたいだね。」
私はプレミアムモルツの缶を片手に、焼いた厚揚げを生姜醤油で食べていた。
軽めじゃない書籍、良質で洗練された音楽、ヘルシーなつまみに明るいうちからのアルコール…
客観的に見れば、今日の私はなんて優雅な高等遊民。
私も無意識的になかなかのおしゃれライフを送っているものね…
少しばかり悦に入っていると、
「じゃあ行ってきまーす。」
さっき帰宅したばかりなのに、手洗いとうがいを済ませた次女は、Uターンをしてもう玄関から出ようとしている。
「遊びに行くの?もう?今日運動会の予行練習で疲れてないの?」
「うん、これが私の貴族だから。」
「…私の貴族……行ってらっしゃい。」
日本語としてはちょっぴりおかしいが、要は外で学友たちと遊ぶことが、
彼女にとっての最高に優雅な行為だということ。
やっていることは違っても、
豊かな気持ちに導いてくれる行動が、その人にとって最高に贅沢なこと
なのだと娘は体で知っているのだ。
その概念が、まだ語彙力の足りない彼女にとっての「貴族」という言葉を
トレースさせたのだ。
勉学、自己研鑽、晩餐会…
そのような、何も高尚な行為でなくても、心は充分豊かになり得るという
当たり前のことを、さらりと次女に教わる。
おしゃれライフなんてかすかにでも思った自分を即、省みる。
よくよく考えたら、ビールは缶のままだし、本もCDも図書館で借りたし、
厚揚げは格安だし、着ているものはタオル地のパジャマだし、
ノーメイクノーパンだ。 どこが貴族だ。
でも私は、
最高に優雅なひと時を、確かに過ごしていた。貴族ばりに。
それは、例え下品なワイドショーを見ながらポテチをつまみに、
第三のビールを飲んでいたとしても、同じ気持ちであっただろう。
その人を心からくつろがせ、気持ちを豊かにしてくれる贅沢な時間は、
どんな行為であっても人を貴族にしてくれる。