二人が暮らすための方法について(10/30)

<第4章 転がり落ちたもの>

「…………さん、安田さん! 大丈夫ですか!」
 佐伯と篤人のいる相談室から大声がもれている。ほんの10分前に面談は始まったばかりのはずだ。受付で別の相談者の到着を待っていた河原は咄嗟に走り出し、一気にドアを開けた。
「どうした?!」
 篤人がソファからずり落ち、テーブルとの間に倒れこんでいる。
 その横にかがみこんで声をかけていた佐伯が緊迫したトーンで叫び返す。
「班長! 先生呼んでください、これ、どう見てもただの体調不良とかじゃないですよ!」
「わかった!」
 河原は壁のインターフォンを取りかけたがまどろっこしいとばかりに部屋の外へ出て叫ぶ。
「相談室1に先生呼んで! 急いで!」
 受付スタッフが「わかりました」と遠くで反応したのを確認し、佐伯と篤人に向き直る。
 佐伯が慌しく経過を説明する。普段は歳のわりにベテランの風格すら漂う雰囲気は失せ、動揺を隠せないでいる。
「今までで一番体調が悪そうで、ぼんやりしていたんですが、ちょっと話がかみ合わないなと思ったら、ろれつが回らない感じになって、それでそのうちに俯いたままになって倒れこんだんです」
「倒れたときに頭は打ったか?」
「いえ、ゆっくりずり落ちた感じだったので、それは……」
「どうしました!?」」
 足音とともに児童相談所嘱託医の成岡先生が飛び込んできた。
 佐伯が先ほど河原に行った状況説明を倍速気味に繰り返す。
 先生が篤人に近づいて呼びかけ、状態を確認する。顔をしかめ、一緒に廊下を走ってきた受付スタッフに叫ぶ。
「救急車呼んで!」
「はいっ!」
 成岡の声の鋭さが空気がさらに張り詰めさせる。暴れる相談者をめぐるトラブルよりもより緊迫感の高い、何が起きているのか、どうなるのかわからない雰囲気に佐伯はのまれていた。続けて篤人についていくつか質問を受け、聞かれるままに必死に答えていたところ次なる指示がとんだ。
「それと、誰か下の自販機でファンタグレープ買ってきて、超特急で!」
「私が行きます!」
 唐突にも思えるオーダーに河原が走り出す。
「あと、この人の生活暦に関する記録があったら救急隊員に説明できるよう、簡単にまとめてください」
 佐伯は事務室へ走り、豊の記録ファイルの一部を急いでコピーし、個人情報にからむ部分を黒塗りしたうえでホチキスどめをした。
 しばらくして救急車が到着し、総合病院に緊急搬送されることになった篤人には、直前の状況を知っている佐伯が付き添うこととなった。篤人は今までになくちょっとした大きさのバッグを持っていたのでそれも携えて救急車に乗った。
 救急外来での処置が終わり、追加の検査に入った篤人と離れた後、児童相談所に残った河原にひとまずの報告を入れた時点で通常の勤務時間は終了する時刻だった。結果的に入院となったために必要な手続きをこなし、やっと児童相談所に戻ってきたときにはすでに夜の帳は下りていた。
 午後の予定は全てキャンセルをせざるを得なかったこともあり、デスクに乗った佐伯のノートパソコンを覆い尽くすように「至急連絡下さい」「今日中に折り返し電話を」という伝言メモが貼り付けられている。しかし、これらを処理するよりもまずは顛末の報告をしなければ、と河原のもとへ赴いた。
「今日は面談の最初からちょっと大丈夫かな、と心配な感じはしたんですが……」
 佐伯は改めてひととおりの面談開始からの状況を説明した。豊の一時保護所ので生活の様子を伝えた後、家庭復帰の見通しなどを確認していたところ、やりとりがちぐはぐになっていき、そのうちにあの状態になったという流れだった。
 ごくろうさんと河原がねぎらう。
「先生のいる日の面談にしておいて結果的に幸運だったな、本来の意図とは違ったけど」
 話の流れ次第で精神科医の成岡先生と篤人との面談をとも考えていたのだ。
「ええ、でもびっくりしましたよ。目の前で人が倒れるとどうにもできないもんですね」
 一般の公務員がそうそう出くわさないであろう、それなりの修羅場をくぐってきたと自負していた佐伯にとっても、人の命の危機を感じる瞬間は手に余るものだった。
「ファンタについても知識じゃ持ってたんだけどなぁ、俺も実際には自分じゃ動けんかったわ」
 ダッシュでファンタグレープを買いに走った河原の行動を理解できなかった佐伯だったが、低血糖症と思われる症状が出ている人にはブドウ糖の摂取が有効で、ファンタグレープはブドウ糖液の代用品として広く知られているとのことだった。
「今日に今日でわからんだろうけど、見通しはどうだい?」
「これからの検査の結果次第だそうですが、その他の疾患が見つかれば長期の入院ということもありうるという話でした」
「今はいい方向になるよう祈るしかないわな。逆に悪いところが見つかっても、この機会に直しとくのがかえっていいのかもしれんがね」
 騒動はひと段落した。しかし篤人の状態と今後の推移によっては前回会議で検討したもう一つの方針、一時保護が長期化した場合に想定される措置を少し早めに実施することになると思われた。

<今後の方針>
 一時保護の継続が必要な場合は養育里親への一時保護委託に切り替え、養育環境の調整が長期化することを想定し、養育里親への委託も視野に入れた生活場所の選定を進める。養育里親の選定にあたっては、生活環境の変化をなるべく抑えることと、就学時期を来年に控えている児童の地域との関わりを維持するため、家庭と同学区に居住する渡辺里親を候補とする。

「里親の打診は平田に頼んである。反応がよければ早めに切り替えの段取りをつけたいな」
「ですね、親側の状況改善は一旦ストップになるわけですし、養育環境の整備は長期戦になりそうですから、その間の豊くんの生活環境の確保を急がないと」
 篤人に対し同情する点はあるが、何よりも佐伯たちが考えるのは子どもの環境だ。疲れを理由に先送りはできない。夜間対応は連日のことだが、山となったデスクの上の処理事項を片付けるべく、自席に腰を下ろすと佐伯は買い置きの栄養ドリンクを気合を入れるようにあおった。

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ポエマー・グロ
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