二人が暮らすための方法について(7/30)

 ここまでのやりとりはいわば双方のペース合わせ、大きなゆさぶりも反発も発生しない、しかしここからが肝だとばかりに佐伯は質問のギアを変える。
「豊くんの後頭部にあるあざについて、ご存知ですか?」
 篤人の目にわずかながら意思が宿ったように見えた。視線が佐伯をとらえる。
「そんなものがあるんですか?」
 ためらう様子もなく逆に質問をする。わずかながらに篤人の感情に揺らぎが生じているように見える。それが自己防衛なのか、純粋な疑問なのかまでは判断できない。
「はい、昨日の登園後、担任の先生が気付かれました。つい最近できたようなあざのようなんですが、ここ数日でそのあたりを強く打つようなことはありましたか?」
「さあ……、覚えがないですね」
「痛みを訴えるようなことは?」
「特には、なかったです」
「そうですか、見たところ少しぶつけたという感じではない、それなりに痛みを伴うようなあざのようなんですが……」
「何が言いたいんです? 私が叩いたと言うんですか」
 感情がもう一段上乗せされたような口調には空気を押し固めるような力が感じられる。
「いいえ、医師の診断でも事故の可能性もあるとのことでした」
 佐伯が即座に断定しているわけではない、と補足する。
「当たり前です……、叩いてなんていませんよ」
 今のところ想像よりも反応の口調はヒートアップしていない。次の言葉によって篤人の反発は強まるかもしれないと思いつつ、佐伯は続ける。
「しかし、事故であったとしても、それにお気づきになっていないとしたら、少し気がかりなことがあるんです」
「何がです?」
「そのとき、安田さんはどうされていたかということです。事故があっても充分に対処できない状態というのは、お子さんにとって安全に心配のある状態ではないかと考えます」
「このくらいの年齢なら自分でケガをすることはいくらでもあるでしょう。どこの親だって完璧に子どもを見てるわけじゃない、ましてうちは私一人ですよ、自分のことは何もしないでずっと子どもを見てられるわけないでしょう!」
 やりとりの度にひりひりするような緊張感が高まる。
「それはおっしゃるとおりです」
「それじゃ何ですか、児童相談所は、あざのある子をみんな保護してるんですか? そうだって言うんならよっぽど豊よりひどい……」
 ここまでで一番に高まったように思える篤人の感情に気圧されそうになるが、このまま言葉をぶつけ合うことが目的ではない、という意思を示すようにゆっくり河原が身を乗り出し、篤人の言葉と感情を押し留める。
「安田さん、ご気分を害されましたら申し訳ない、こちらの言葉が足りませんで」
 二人の対立になりそうな空気を低い落ち着いた声が緩和させる。
「豊くんのことがご心配でしょうし、私共も早くお家に戻れるのが一番いいと考えています」
 話の方向性の急な切り替わりを感じたのか、いぶかしげな視線を篤人が河原に向ける。
「そのための安全確認が児童相談所の役割です。そこはご理解いただけますでしょうか」
「安全確認……?」
「ええ、今回は保育園であざが確認されたことをきっかけに、安田さんにご心配をかけ、お忙しい中おいでいただくことになっています。当然のことながらこういったことはないほうがいいんです」
「それは……、そうですよ」
「何もこんなことぐらいでと、不本意というか、お節介に感じられることもあるかもしれません。しかし最近は色々な事件や事故がより身近で起きているということもありまして、お子さんの安全というものに対する周囲の目というのは敏感になっている状況なんですね。保育園もこういったことがあった場合は、児童相談所に連絡しなければならない義務があるんです」
 今回の保護は特別に重大な事態と判断されるようなケースと決まったわけではない、というニュアンスを含めて言葉を続ける。
「もしかすると今後また、保育園に限らず、どこか別のところからの心配の声が入って再度保護になることがあるかもしれません。そういったことがないようにするのが、今日お話をうかがっている一つの目的なわけです」
 篤人は次第にこちらの話を「聞く」体勢に戻っている様子が見受けられる。その変化を見極めるように河原の言葉はゆっくりと続く。
「お伺いしたところ、安田さんは環境の変化が多くある中で豊くんのことについて心を砕いていらっしゃると感じます。奥様のご不幸でお悲しみの中でも、ほとんどお一人でがんばってこられた、なかなかできることではないと思います。しかし、それと同時に今までどおりの生活をしていくのは難しいとお感じになっているところもおありではないかとお察しするのですが、いかがでしょうか」
「それは……」
 河原は責めるばかりではなく、困難な事情やそれに立ち向かう篤人の苦労や尽力も認める姿勢を示す。その言葉には、ここは篤人を非難する場ではないとのメッセージが含まれている。
「安田さんの頑張りでうまくいっている部分もあると思います。しかしながら、できればもっとこうできたらとお感じになっている部分もあるのではないでしょうか」
「……確かに、そういう部分はあります」
「ここで一旦、課題を整理して安田さんと豊くんの両方の生活の建て直しを計ることが必要な時期なのではないかと考えます。誰もが心配な目で見るのではなく、安心して見守れるような」
「……つまり、結論としてはすぐには帰せないということですか」
 篤人の目に反発と失望が混じったような雰囲気が浮かぶ。しかし河原はそれに同じ種類の態度では返さない。
「豊くんにとって安心・安全な環境であることを確認させていただければ、お帰しできる。そう捉えていただければと思います。そのために必要なお手伝いをさせていただければと考えています。安田さんの側の体制づくりを行う間、豊くんはこちらで責任を持ってお預かりしているとお考えいただければ」
 否定的な言葉には肯定的な言葉で返すことで衝突を抑える、経験によって培った作法だ。
 このまま帰宅させては、虐待があったかもしれないときと同じ2人きりになる。状況が再現されれば、同じ事象が起きる可能性がある、だから帰せないというのが大きな判断ポイントだ。しかしそれを直接言っては感情をいたずらに刺激する。確認のためという理由で親子を分離する時間をかせぎ、その間に他者の目が入ることを想定した生活を送ってもらうことで、事故なり虐待なりが発生しにくい状態を作るのが狙いだ。
 篤人は視線を落とし、長い沈黙を保つ。
 これにもあせって言葉を継がない。空白を恐れず、相手のペースを落ち着かせ、あくまでこちらの押し付けはせず、反射的なものではない相手の反応を確認するのだ。おそらく篤人は今、どのあたりを自身の中で譲れない線として区切るのか、その見極めをしているのだろうと佐伯は考えていた。
「何がどうなればいいんです、具体的には」
 条件しだいでは受け入れようという意向だろうか、こちらの方針を吟味するように篤人が口を開いた。その気持ちを受け止めるように河原は説明する。
「まずは日を改めて、もう少しお話を安田さんからお伺いしたいと思います。それと前後するかもしれませんが、お住まいの状況を確認させていただくためにお宅へ訪問をさせていただきたいと思います」
「家に来るんですか?」
「抵抗があるのはごもっともかと思われますが、どのご家庭にもお願いしていることなのでご理解いただければと思います。生活の環境はやはり実際に見て確認することに勝る方法はないもので」
「……他には?」
「加えて、現在の豊くんについて医師の診断、これは今回のあざのことだけでなく全般的なことについて、児童相談所の心理士による面談も行いたいと考えています」
「判断に必要な時間的の目安はどのくらいですか?」
「ご都合がよろしければ、ここ数日のうちにでも動かせていただいて、2週間くらいを目安にある程度の判断をさせていただこうと考えています」
「……わかりました。しかし、こちらにも仕事の都合や準備もあります。今すぐに日を確定するというわけには……」
「もちろんです、安田さんのご都合に極力合わせますので」
 最後にとりあえずの次回面談と家庭訪問の日程を調整、都合が悪くなれば電話で再調整することを確認した。連絡先は携帯電話のほうが出られる度合いが高いとのことだった。
「それでは、本日はありがとうございました」
 河原が会釈をするのに少し遅れて佐伯も頭を下げる。篤人もそれに応じる。これを区切りとして、ここでの話は一旦終了となった。佐伯が立ち上がりドアを開け、篤人と河原を通した後、自らも部屋を出る。
 廊下を入り口へと戻る際、河原が篤人に話かけた。
「お忙しいところ、昨日は遅くにお電話してすいませんでした。何時にお休みでしたか?」
「いえ、仕事をしていて、明け方までぼんやりと起きていました」
「それは、お疲れでしょう、朝食はもうとられましたか?」
「いえ……」
「そうでしたか、長くなってしまい申し訳ありません」
「いえ、朝はあまり食べる気がしないので、特に問題ないです」
「これからお仕事で?」
「締め切りがありますんで……では」
 初回の面談はこうして終了した。

「どんな見立て?」
 事務室に戻り、河原が佐伯に面談の印象を尋ねてきた。
佐伯はこれまでの9年と少しの経験の引き出しの中身と比較し、簡単なまとめをする。
「自分が十分対応できてないってことを否定するわけでもないですし、わりかし素直に指摘を受け入れたところを見ると、父親の性格的には協力関係の見通しはありそうですね。危険度はさほどでもってところでしょうか」
「もともとの性格と、あとは疲労感からくるエネルギー低下かもな、受け入れたのは」
「子どもに会うっていう申し出はなかったですね。次の面談もすぐにっていう態度じゃないですし、仕事の締め切りが優先なんでしょうか?」
 具体的に交渉ごとを進める気力がないのかもしれない。会話の中でも言葉のイメージほどこちらを攻撃して来る感じはなかったし。どちらかといえば正体の見えない幽霊みたいな怖さだ。
「豊くんの食事もちょっと心配な感じですね、家はどんなですかね」
「今行ったらえらいことになってるんじゃないかなぁ、多分。近くに助けを得られる身内もいないようだし。家庭訪問してもそのままだったら環境改善には時間がかなり必要になるかもな」
 深刻な暴力が行われている様子はなく、最悪の事態ではなかったが、親子ふたりだけの家庭内で篤人の側に安心の材料がさほど多いわけではない。抱えるケースまたが一つ積みあがり、虐待対応班の面々の肩と心に掛かる重みはじわりと増した。
 とりあえず、明日の定例会議での報告のために作らなければならない資料のまとめだけでもなかなかに骨が折れる仕事となりそうだった。そうしている間にも虐待対応専用ダイヤルは鳴り、次の相談は飛び込んでくる。

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ポエマー・グロ
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