二人が暮らすための方法について(8/30)
<第3章 こわばる体と状況>
児童相談所での面談を終え、どこにも立ち寄らず篤人は帰宅した。駐車場からエレベーターを使い、何も考えずにたどり着ける204号室。最近の風潮に漏れず、表札はどの部屋の前にもついていない。部屋番号によってのみ識別される自分の家。
昨日までは豊の声が響いていたこの部屋にいるのは自分一人。妻であった真理子がいなくなり、そして豊までいなくなった。無理もないか、と口から諦めにも似た言葉がこぼれる。
最大限好意的に見ても人を呼べるような家ではない。外廊下はまだしも、玄関ドアを開けてみればたたきからしていくつもの靴が脱ぎ散らかされている。まずは、どこに今履いている靴を脱ぐかを考えなければならない。どうにか隙間につっこんだ靴から足を引き抜き、浴室につながる洗面所の向かいの洋室に目をやる。クローゼットという響きがもはや意味を成さない状態で開け放たれ、整理も処分もできない物が山となっている。以前からクローゼットの左3分の1ほどは篤人のスペースという区分になっている。洗濯まではしたが、そのまま乾燥機につっこんで乾かしただけの衣服が、しわになることなど全く無頓着に積まれている。どこまでが脱ぎ散らかしたものとの境界線なのかはわからない。
昨日今日着ている服もその中で一番上にあったということだけが選択の理由だった。季節に似合いのラインナップは埋もれた衣装ケースの中で衣替えをずっと待っている。真理子のものを整理することができていないのも現状の一因なのだが、どうにも気が進まないでいる。
児童相談所という外部刺激の発生により、片付ける動機と必要性が生まれたのだが、とりかかるのは今すぐでなくてもいいだろうとスルーし、リビングへと向かう。とは言え、こちらも散らかり加減に大差はなく、平らな空間の面積は少ない。わずかな隙間も片足を突っ込み、そこから次の足先を運ぶ中継点にするのがせいぜいの広さのものしかない。
背もたれや座面に衣服が乗っている様がまるで物干し台のごときソファにたどりつき、一人分の座面を確保して何とか腰を落ち着ける。何から始めるべきかを考えようとするが、時計の秒針の音が意識をイラつかせる。歩み寄って電池を抜こうとしたがフタがうまく空かず、先ほどぞんざいに端に寄せたタオルとウインドブレーカーの間にうずめた。それでも漏れてくる音にもう抵抗する気力もなく、再びソファに身を沈めた。
頭痛がする、足もふらつく。ここしばらくは休む間もなく目の前のことを片付けるという調子だったが、昨日から体が「疲弊」という概念をを思い出したかのように、気にしていなかった疲れを突如はっきりと感じられるようになった。
豊がこの部屋に帰ってくるためには、児童相談所の提示した条件をクリアする必要がある。要は今まで後回しだったり、目をつぶったりしてきたことで、世間一般が眉をひそめるようなことをちゃんと修正しろということなのだろう。その新しいタスクがぼんやりと、しかし重くのしかかる。できるものならそれはやっていただろう。しかしそれが少しずつ積み重なった結果が昨日の出来事であり、この部屋の風景に象徴される今の自分なのだろうと思われた。
豊を一時保護したという電話での通告が、どうにも現実感を持って受け止められなかった。積み重なった物の山と、それを覆う冷えた溶岩のような荒涼とした頑強さ。真理子がいなくなった後に続けてきた行動の数々、何が起きてもただ淡々と片付ければそのうちどうにかなるだろうという消極的楽観論が限界を迎えたかのようだった。
児童相談所に対してどんな態度で臨むか、異論を唱えて取り戻すべきかなど、一時保護になった体験と対処について書かれたブログなどを調べてそれなりに考えたつもりだった。しかし、結果として、ほぼ言われるがままで帰ってきてしまったという敗北感が篤人の気持ちを暗くさせていた。
ネットにあった情報と、自分の場合はどこまで共通しているのか、それを照らし合わせて考えようにも、とりかかるのに躊躇してしまう。目の前には仕事の締め切りが今週中2つと来週に1つ、まだ何も手をつけていない、ここのところのペースを考慮するに、少しでもとっかかりの下書きしないとかなり厳しいスケジュールになる。
でも児相とは約束をしてしまった。何を優先すればいいのか、考えはまとまらない。そうしているうちにやっていることといえば再度のスケジュール確認、今日何回目だ、何も進まないのに時間だけが過ぎていく。
保育園の送り迎えや食事の用意などの家事全般、十分というほどできてはいなかったにせよ、その他もろもろの豊関係のやるべきことがなくなったのは負担が減ったはずなのに、それによって楽になった心持ちがしないのは何故なのかと考えても答えは出なかった。
そんな状態のまま児相の家庭訪問日が来た。日程変更の電話をすればよかったのかもしれないが、日程をスケジュールに書き込んでいなかったので、篤人の意識にそもそもその行動につながるきっかけはなかった。
三島という若い男の職員と佐伯が、「おじゃまします」と部屋に入ってくる。口には出さないが、このままではちょっと問題ありだという印象を持っているのが見てとれる。片付けが大変であれば、手を貸してくれるひとり親家庭向けの家事援助サービスがあるとパンフレットを見せられたが、こんな状態で何を頼めばいいというのかという思いの篤人によってそのままテーブルに散乱している書類の山の一番上に乗せられただけだった。
佐伯が一時保護所での豊の様子について説明し、次回面談の日程を確認した。明後日の日付だったが、それも篤人は覚えていなかった。パソコンの前のメモ帳に書き付ける。
2人が帰った後、篤人は「今日ちょうどゴミ収集日ですから」と三島が外へ出していいかと聞いて外廊下に置いていった可燃ごみの袋をなんとかしなければと動き出した。それを両手に4つ持ち、マンション下の集積所へ納めた。しかし、再度往復する気になれず、運びきれなかったゴミ袋をまた部屋に戻した。