後悔。早く知っておけばよかったShin Hangaと吉田博(1)
はじめに
還暦近くなるまで、全く知ることがなかった作家達を、新宿朝日カルチャーの「永沢まこと、線スケッチ教室」に参加して初めて知ることになりました。
それは、Shin Hangaと呼ばれる明治後半から昭和にかけての木版画です。彼らをもっと早く知っていたらと、後悔の念すら湧いています。
今思い出すと約40年前、私が最初に使ったマッキントッシュ・パーソナルコンピュータの広告の中のディスプレイ画面に、スティーブ・ジョブスが選んだ「橋口五葉」の櫛梳る女性の版画が映っており、その記憶があります。実は間接的に知っていたのでした。
さて、今年1月26日から東京都美術館で開催される「没後70年 吉田博展」の広告を新宿駅で見ました。今では吉田博の画風は私にとって目標の一つになっており、是非見に行かねばと思っています。そこでこの機会に、10年前に書いた「吉田博」に関するブログの記事を読み直して当時の新鮮な驚きを思い出しています。ここでは、そのブログの記事をもとにして吉田博と私の関りについてまとめてみようと思います。
吉田博との出会い
欧⽶では、Hiroshi Yoshida(当たり前ですが)で広く知られています。実は、彼は日本ではなく、海外で高い知名度を誇っているのです。おいおいこれについてもお話ししていく予定です。
話を先に進めます。今から11年前の2009年に、江⼾東京博物館で⾏われた「よみがえる浮世絵うるわしき⼤正新版画」展で、はじめて吉⽥博の作品をつぶさに見ることが出来ました。
この美術展では、新版画の代表的な作家たちの作品が展示され、その全貌が明らかにされました。日本人作家だけでなく、世界から参加した外国人作家の作品も展示された本格的なものでした。
今でこそ、川瀬巴水、吉田博など新版画の展覧会は時折開催するようになってきましたが、上記美術展は日本で初めての大規模美術展だったと思います。⽇本では新版画は知る⼈ぞ知るという存在でした。今でもそうかもしれません。戦前ではフロイト、マッカーサー元帥(むしろ夫人かもしれませんが)、現代ではスティーブ・ジョブスやダイアナ妃が新版画作品を好みそして購入していたとはどなたも知らないのではないでしょうか。
さて、吉田博の画風を知るために、ここで新版画作家の代表的作家の川瀬巴⽔の作品を比べてみることにします。最初に、川瀬巴水の作品例、次に吉⽥博の作品を示します。それぞれ代表作品というよりは、相互に比較しやすい絵を選びました。
木版画の手法は同じですから、見た目には似ているのですが、よく見ると画風はまったく違う印象を受けます。
川瀬巴水の絵は優しく抒情的な雰囲気が一杯です。ただし、ここで示した絵は、芝増上寺の絵を除き、他の三つは太陽が昇った日中の絵ですが、川瀬巴水の場合は、雨や雪などの不順な天気や、朝、夕、夜など、太陽が明るく照らす時間ではない時の、印象深い作品が多く、むしろ作風の特徴はそのような絵に現れています。
一方、吉田博の絵は、川瀬に比べ、線描がきちっとして、厳しい印象を持ちます。とはいえ、抒情性も同時に感じます。
私自身は、11年前、江戸東京博物館で実物の作品をひと眼⾒たときに、ビビッときました。他の⽇本作家と何かが違うのです。あえて⾔えば、次の理由が挙げられます。抒情性があるにもかかわらず、べったりしていない。
他の作家には、⽇本特有のべったり感(演歌といってもよい︖)があるのに対して、吉⽥には感じられない。どこか突き放したような知的な冷たさもあわせもつところがあります。この点が、彼の作品が海外で圧倒的に受け⼊れられている理由ではないかと思います。
というわけで、それ以来何とか、吉⽥博のことを知りたいと思い、折に触れて調べていましたが、断⽚的なことしか集まりませんでした。ところが、当時単身赴任していた仙台のメディアテーク内にある仙台中央図書館で、新規購⼊の本を⾒ていたところ、なんと「⼭と⽔の画家 吉⽥博」というそのものずばりの本を⾒つけてしまったのです。
寛容なるかなアメリカ
安永幸⼀市著、「⼭と⽔の画家 吉⽥博」は、期待を裏切りませんでした。吉⽥の⽣涯がやっと分かったのです。
特に、新版画の作成に⼊る前の⽣い⽴ちと、数多くの⽔彩画、油彩画が紹介されているのがありがたい。
知りたいことは、⼀体なぜ欧⽶で、吉田博は現在も⼈気が⾼いのかという疑問です。
実際、終戦後厚⽊⾶⾏場に降り⽴った、マッカーサー元帥が第⼀に会いたかった⼈物が吉⽥であったといいますし、執務机の背後の壁に2枚の吉⽥の版画が飾られている、執務中の⽣前のダイアナ妃の写真がこの本に紹介されています。
ちなみに、その絵は、冒頭で紹介した吉田博の作品例のうち、「瀬戸内海集 光る海」と、「奈良の猿沢の池」の2枚です。
⾯⽩いのは、というよりも驚いたのは、ほとんどあてもなく、⽶国に渡り、しかも、模写をするために押しかけたデトロイト美術館で、偶然も作⽤して館⻑に会うことができ、結局館⻑が、彼の作品をほれこんで、展覧会を開くことになり、⼤成功をおさめることになることです。
なお、作品というのは後年の木版画ではなく、水彩画、油彩画が中心でした。その作品例を示します。(雲井桜 1899(明治32)年頃)(出展wikimedia commons, public domain)
館⻑の作品に対する評価はこうです。
「それらは、情趣と⼤胆なタッチをもち、同時に詩的な魅⼒と⾊彩を持っていた。略。 ヨーロッパの画家が持つ、雄⼤さと深さを持ち、ヨーロッパの巨匠にも⽐肩し得る質の⾼さを持つ」
そのとおりだと思います。
この展覧会以降、アメリカで⼤成功していくのですが、それにしても、現代の⽇本でこんなことがありえるでしょうか。
おそらく、どの権威ある美術館の館⻑も、どこの⾺の⾻かわからない、はるか遠い異国の無名の画家の作品を⾃分の眼で評価して、しかも⾃分の美術館で展覧会を開くことを勧めるなど、到底考えられません。
この点をもってしても、「恐るべき国なるかな、⽶国」と思いませんか。
「自摺」木版画の創出
吉⽥が渡邊庄三郎の要請に応えて、新版画を始めたのは、⼤正九年、本格的には、⼗年から⼗⼀年にかけて、名⾼い「帆船」を含む7点の版画を出したことからとのことです。
渡邊を以前ブログの中で、起業家と評したことがあるのですが(これについては別の機会にご紹介します)、相⼿にもされなかった「洋画界から誰かを起⽤したい」という思いを貫き通すところなどその⾯⽬躍如たるところでしょうか。
吉⽥は、関東⼤震災で版⽊を失った後、なんと下絵だけでなく、彫りや摺りも⾃ら習得し、「職⼈顔負けのレベルまで到達した」あと、⾃ら⽊版画
の創作を開始しました。
実際には、専⽤の彫り師を雇い、摺りは名⼈に依頼したようですが、全⼯程を厳しく指導、注⽂したとのことです。
それで、やっとわかりました、彼の作品に必ず記されていた「⾃摺」とは何を意味していたのか。
安永⽒は、吉⽥の⽊版画の特質として、「⼤判」「30〜70版におよぶ多重版」「同版⽊による⾊替摺り」を挙げていますが、このような技術的な特
質の前に、やはり原画⾃⾝が持つ魅⼒が⼀番の特質のように思うのです。
「線スケッチ」に、強引に結びつけるようですが、11年前に「よみがえる浮世絵展」で⾒た、原画の線描の厳しさが眼に浮かびます。(続く)