旧制中学校のバンカラ文化の残り香(実体験編):福岡県立修猷館高校の応援歌指導について

Twitterで東京と地方の教育格差が話題になっていて、その中で地方と一口に言ってもその中でもかなりの多様性があるという指摘があった。私が20年ほど前に卒業した修猷館高校のことを思い出した。修猷館は福岡の県立高校なのだが、旧藩校・旧制中学校の系譜を辿っており、応援歌指導をはじめとするかなり独特な文化を持っていた。独特とは言ってもそれは世界の狭い高校生の時の理解で、今では旧制中学校の文化を戦後になっても地方エリートの再生産装置として使い続けた残滓などではないかと考えている。

この推測が妥当なのかどうか多くの人の意見を聞いてみたいので、まずは私が経験した修猷館高校の応援歌指導が具体的にどんなものだったかをまとめる。私が入学したのは1999年なので記憶がかなりあやふやだが、大筋では間違っていないと思う。関係者は明らかな間違いがあれば教えてほしい。また本稿はできるだけ客観的かつ具体的に応援歌指導の様子を再現することに務め、これに続く二つの記事で具体的な考察を行う。

初日は点呼で終わる

修猷館高校の新入生は、入学後の対面式と呼ばれる機会で応援歌指導という行事が存在することを公式に知ることになる。在学生と新入生が初めて対面するから対面式なのだが、暖かく迎え入れるというようなニュアンスではない。むしろ挑発的な空気を漂わせながら、在校生たちが館歌(修猷館の校歌のこと)を腰を振って絶叫しながら歌い、要約すると「新入生は応援歌指導という儀式を終わるまで修猷館のフルメンバーではない」というメッセージと強烈な印象を新入生に植え付けるのだ。「腰を振って絶叫しながら」というのは下のビデオをみてもらった方が話が早い。これは卒業式なので細部は異なるが、このようなパフォーマンスを新入生に対して見せつけるのが対面式だ。

実際の応援歌指導は、対面式が行われる翌週、入学して2週目の放課後を月曜から金曜まで5日間分丸々使って行われる。新入生はこの期間は部活動などには参加できず、応援歌指導に教員たちは表立って介入しないが、実質的に学校の正式なカリキュラムとして行われる。

応援歌指導が行われる週の月曜日の放課後に、新入生たちが教室で大人しく待っていると、どこからともなく太鼓の音が聞こえてくる。どーーーーん、どーーーん、どーーん、どーん、どん、どん、どんと徐々に音の間隔が縮まり、男の叫び声と走る足音が聞こえてくる。教室の前の廊下を疾走する音が聞こえ、大きな音を立てて扉が開き、学ランを来た裸足の男子生徒が二人飛び込んで来る。彼らがこのクラス担当の応援歌指導員たちだ。

「てめえら全員立て!」「気をつけたい!」と促され、新入生は全員立ち上がる。のろのろと動いていると「さっさとせんか!」と怒られる。男子も女子も足は肩幅に開き、両拳は握り込んで腰の後ろに当て、胸を張って立つように指導される。一般的な「気をつけ」とは違うが、どうやらこれが基本姿勢らしい。全員が揃うと、応援歌指導員たちが口を開く。具体的な口上は覚えていないが、「お前らはまだ本物の修猷生じゃねえ」ので、応援歌の練習をして、修猷生としてふさわしい振る舞いを身に着けるというような趣旨説明だった。

初日に行うことはまずは点呼である。20世紀末の九州の学校では出席番号は男女別の五十音順に並んでおり、新入生の座席もこの番号に従っていたので、入り口側に男子生徒が窓側に女子生徒がまとまっていた。応援歌指導員は出席番号順に、つまり入り口側の男子生から順番に点呼をとる。

仮に当時のクラスの出席番号1番の男子学生を「あべ」くんとしよう。応援歌指導員はあべ君の点呼をとる時に普通に名前を呼ばず、顔をおもいっきりあべくんの顔に近づけながら「あべーーーー!」と絶叫した。同級生のあべくん「はい!」と元気よく答えた。普通であればこれでいい。しかし応援歌指導で求められている答えではなかった。

応援歌指導員「はいじゃねえ。押忍や。しっかりせんか。いいか。あべーーーー!」
あべ「おーーーーっす!」
応援歌指導員「あべーーーー!」
あべ「おーーーーっす!」
応援歌指導員「あべーーーー!」
あべ「おーーーーっす!」

応援歌指導員が名前を何度も叫び、新入生が「押忍」と大声で答えるというやりとりが何度も繰り返される。「おーーーーっす!」と答えるときには、両拳を後ろで組んだ姿勢からさらに腰をそらして上空に向かって叫ぶように答えるのだ。このやりとりを繰り返す間、他の生徒は直立不動でひたすら待っている。

おそらくどこの教室でも最初の一人は生贄だ。応援歌指導員が「声がちいせえったい。ちかっぱ声出せ!」「気合入っとうとや?!」などと責め立て、このやりとりが何度も続く。やがて、どこかの段階で応援歌指導員は満足し、次の生徒に移る。実際、明確な合格不合格の基準があるわけでもなく、時間には限りがあるので、適当なところで切り上げているのだろう。

私の名前は渡部なので、最後の男子だった。他の男子生徒に倣って「わたべーーーー!」と名前を呼ばれたら、頑張って「おーーーっす!」と答えたのだが、何度か繰り返したところで、「声がちいせえったい。女より声がでとらんぞ。」と言われて胸ぐらを掴まれて、廊下に連れ出されてしまった。廊下では胸ぐらを掴まれたまま「お前やる気あるとか?!あ!」とすごまれた。廊下に連れ出された学生は私だけだった。なぜ真面目でおとなしい学生だった私だけが連れ出されたのかは今でもよくわからない。

応援歌指導という名前だが、初日は点呼だけで終わる。応援歌の歌詞を暗記しておくように言って、応援歌指導員の二人は風のように教室を走り去っていった。

応援歌指導は歌の練習ではない

二日目や三日目も点呼で始まるが、応援歌を歌う時間を確保するため、点呼は早く終わるようになる。修猷館高校には校歌である館歌(かんか)以外に複数の応援歌と呼ばれるものがある。なぜ複数あるとかという、運動部の試合の結果によって歌う歌が変わるからである。少し長くなるが、応援歌指導の雰囲気を掴むために一つ一つ歌詞を見てみよう。

館歌

まず館歌である。高校のホームページによると、館歌の作詞作曲は当時の中学修猷館の教諭らの手によるもので、1923年に制定されている。興味深い点は八波則吉(第五高等学校教授)と武島羽衣(東京音楽学校教授・歌人・御歌所寄人)が歌詞に手を入れていることだ。歌詞の1番を見てみよう。

西のみ空に輝ける 星の徽章(しるし)よ永久(とことわ)に
光栄(はえ)ある成績(いさお)飾らんと 海の内外(うちそと)陸(くが)の涯(はて)
皇国(みくに)の為に世の為に 尽くす館友幾多(いくそばく)

ここで言及されている「星の徽章(しるし)」とは修猷館の校章である六光星(下図参照)をさす。輪郭だけみるとダビデの星だが、内部のデザインが異なる。

画像1

修猷館高校のホームページにはこの六光星の由来を以下のように説明している。

伝統に輝く六光星の徽章は明治27年、日清戦争期の興隆する国運を背景に制定された。その由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであって、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。なおこの星は、北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。

六光星が北極星を象ったものだとすると、それがなぜ「西のみ空に輝」いているのかわからない。「日清戦争期の興隆する国運を背景に制定された」という記述と「光栄(はえ)ある成績(いさお)飾らんと海の内外(うちそと)陸(くが)の涯(はて)」という歌詞から、「西」であることに拡張主義的なニュアンスを読み取ることはできるかもしれないが、何らかの漢籍に由来する可能性もあるので、私には確信が持てない。とはいえ、続く「皇国(みくに)の為に世の為に尽くす館友幾多(いくそばく)」という歌詞があることからもわかるように、全体的にナショナリズムが前面に出ていることは疑いないだろう。私が現役の高校生の時も「いや「皇国(みくに)の為に」はさすがにやめたほうがいいんじゃないか」と思っていたが、応援歌指導でそういった疑問は解消どころか議論の俎上に登ることさえなかった。

2番と3番の歌詞は以下の通りである。

常磐(ときわ)の松の百道原(ももちばら) 集へる健児一千人
青春の血は玄界の 荒き怒濤と沸き立ちて
久遠(くおん)の理想を望みつつ いそしみ努めん文に武に

猷(みち)を修むと名に負ふも やがて至誠の一筋ぞ
ああ剛健の気を張りて 質朴の風きたへつつ
向上の路(みち)進み行き 吾等が使命を果たしてん

景観への言及が増え、内容的にもだいぶマイルドになっている。ちなみに旧制中学修猷館は、日本最初の右翼団体「玄洋社」に多くの人材を排出していたらしく、それもあってか全体として「国家有為の人材たれ」というメッセージが強く打ち出されている。ただ、当時の右翼と2020年における右翼という言葉が指し示す対象はかなり異なるし、それについてここで議論する余白もなければ私の勉強も足りないので、これについては割愛する。

新入生たちは頑張ってこの歌詞を覚えてきて、応援歌指導の二日目から実際に歌い始める。前述の通り、直立不動で肩幅に足を開き腰を振りながら歌う。伴奏は存在せず、応援歌指導員の「かんかっ!よーーーおーーーい!はーじめーーーえ!(館歌!用意!始め!)」という掛け声で始め、彼らの腕の振りに合わせて歌う。だいたい、数小節も歌うと応援歌指導員たちが歌をとめ、ダメ出しをする。ダメ出しとは言っても、そもそも応援歌指導員も正確な音程をとって歌っているわけではなく、応援歌指導のための事前の訓練で彼らの喉は潰れているので、音楽的なダメ出しではない。何がダメだったのかいまだによくわからないが、たぶん気合とかそういうものが足りなかったということなのだろう。私のときは1学年は10クラスだったので、各教室からそれぞれ館歌や応援歌を絶叫するダミ声が聞こえてくる。当然、応援歌指導員からは「隣のクラスに負けとうぞ。」とか「恥ずかしくないとや!?」といった競争意識を煽る言葉がかけられるのである。

「玄南(げんなん)の海」

館歌以外にも5、6ほどの応援歌を暗記し練習する。その歌詞も見ておこう。館歌の次に重要な歌は「玄南の海」である。

玄南の海潮薫る 百道(ももち)が原の松翠(まつみどり)
背振(せぶり)の嶺の風高く 血潮は踊る春の空
修猷健児今立ちぬ 颯爽の勇姿翻る
輿望(よぼう)は重し丈夫(ますらお)や 春風のごと進み行け
いでや最後の勝利をば 我握らでやおくべきか
夕日の空を焦がす時 叫び続けん勝鬨を

「玄南の海」とは字面から考えて、玄界灘の南の海のことだと思う。福岡市は博多湾に面しており修猷館高校は博多湾沿にあるので、歌詞がこの後「百道が原の松翠」と続くことを考えても、「玄南の海」は博多湾のことだと考えていいだろう。「百道が原」とは、学校のすぐ近くにある「百道浜」のことである。ちなみに、椎名林檎の「正しい街」で「都会では冬の匂いも正しくもない/百道浜も君も室見川(むろみがわ)もない」という歌詞にある百道浜である。当然室見川も近くにある。

「玄南の海」は卒業式などで歌うようで、私はまったく覚えていないが、歌っている動画はいくつかネットに上がっていた。

修猷館高校の公式ホームページによれば、「玄南の海」は「アムール川の流血や」という義和団事件の際にロシア軍が中国人居留地を襲撃した事態を歌った旧制第一高等学校の寮歌とメロディーが同じらしい。このメロディーはその後「征露歌」に転用され、さらに各地の旧制中学校でも使われるようになったようである。館歌には八波則吉という第五高等学校教授や武島羽衣といった人物の手が入っていることはスベに述べたが、「玄南の海」もより上位の高等教育機関とのつながりから生まれたものなのだろう。


「彼(か)の群小」

「玄南の海」の次によく歌われるのは、「彼の群小」である。この応援歌は運動部が試合で勝利したときに歌うために作られており、そのことは歌詞を見れば一目瞭然である。

彼(か)の群小を凌駕して 緋の大旆(たいはい)はかち得たり
われらが胸の歓びは ここに溢れて八重潮の
かの滄溟(そうめい)に湧く如く  喉つんざいて轟くを
轟く歌にわれ立ちて 舞えば寄せ来る夕暮れの
流れは早し袖ヶ浦(そでがうら) 砕けて且つ鳴る潮の曲
聞けや山河もひれ伏して 修猷の勝利寿ぐを

歌詞の中の「袖ヶ浦」は、千葉県の実際の地名というよりは、その由来となった日本武尊(ヤマトタケル)が海を渡る際に海神の怒りを沈めるため妻である弟橘媛(オトタチバナヒメ)が身を投げたという故事の方を指しているのであろう。勝利を寿ぐ歌の歌詞の中に女性の身投げで事態が改善したというエピソードを埋め込むのはジェンダー的にどうかと思うが、作詞者はおそらく玄界灘の荒波のイメージからの連想を働かせたのであろう。敵を「彼の群小」と名指しているあたりもなかなか戦闘的である。

ここまで見て分かる通り、館歌も応援歌も百道が原の松の「緑」と玄界灘の海の「青」という色彩がまず提示され、そのあとに血潮や緋の大旆や夕暮れといった「赤」のイメージが勝利の象徴として出現する。修猷館的には勝利は血の赤なのだ。血生臭く物騒な歌詞の代表であるフランスの革命歌「ラ・マルセイエーズ」などと比較しても、こういった色彩イメージが豊富に使われている点は興味深い。

「輿望(よぼう)は重し」

ちなみに試合に負けた時の歌もある。「輿望は重し」である。歌詞は以下の通り。

輿望(よぼう)は重し修猷の健児  臥薪嘗胆過ぎにし恥辱
いかで雪(すす)がん雪がめや 会稽山下(さんが)のわが選手
立てや奮えや修猷の健児  いでや握らん勝利の覇権
やがて大呼せん勝鬨は 袖が浦曲(うらわ)に響くなり

「臥薪嘗胆」や「会稽山」は『十八史略』の会稽之恥の故事への言及である。薪の上に寝て復讐の志を燃やし続けた夫差に破れ、会稽山に逃げ込んだ勾践は肝を嘗めながら「会稽の恥は忘れない」と誓い、ついには夫差を破った。したがって、歌詞の「会稽山下のわが選手」は試合に負けた側である。その負けた選手に向かって、「世間からの期待は重いのだから次は勝てよ」と鼓舞するのが「輿望は重し」という歌の位置付けだ。

中国の故事への言及と同時に、さきほどの「彼の群小」と同じく、「袖が浦曲に響くなり」という日本神話の故事への言及があるのだが、これはこの歌だけでみるとバランスを書いているように見える。おそらくなんらかの形で日本神話を引用したかったのだと思うが、天の岩戸などの他の故事は使いにくいため、玄界灘のイメージと重ね合わせやすいということで袖ヶ浦が再び使われたのだろうか。ちなみにこの歌詞の「恥辱」の部分は実際に歌う時にはリフレインがかかって「すーっぎにし、ちっじょくーう、うーう」という感じになる。かなり怨念が込められている。

ともかくだ。これらの館歌と応援歌をひたすらダミ声で叫び続けるのだ。応援歌指導員たちは、一人は教卓のまえで腕を振ってリズムをとり、もう一人が歌いながらさながら試験監督のように教室の中を闊歩し、声が小さいと思えば、顔を近づけてプレッシャーをかけてくる。唾がかかるので嫌だった。ただひたすら何度も繰り返すだけで、これらの歌の音楽的理解も文学的鑑賞も歴史的解釈も最初からすべて放棄されていた。

体育館まで裸足でダッシュして全体練習をする

三日目あるいは四日目になってある程度歌えるようになったら、というか実際上は事前に決められたスケジュールに則って、学年全体が体育館に集まって歌うことになる。各教室から体育館まで1学年400人が太鼓の音に合わせて裸足で走って移動する。新入生たちはまずは教室を出て廊下で待機するように指示される。応援歌指導員たちのリーダーが校舎全体に響くように太鼓を打ち鳴らし、これを合図に応援歌指導員たちが「おらっ!走れ!」とか「行け!」と促し、教室ごとに順番に走って体育館まで移動するのだ。体育館は教室がある校舎とは別にあるので、そこまで木造校舎の階段を駆け下り屋外のアスファルトの道を走り抜けることになる。

全員裸足で屋外を走るのは当たり前だがかなり危険である。今にして思えば応援歌指導員たちは、私たちが知らないところで、おそらく春休みや新学期早々にダッシュのルート上にある小石や砂利を拾って避けていたのだと思う。なぜそう思うかというと、修猷館高校の運動会は全員裸足が原則で、そのために運動会シーズンは定期的に全校生徒で運動場の小石や砂利を手分けして拾う時間が設定されているのだ。

1学年400人が体育館にダッシュで移動したあとは、再びクラス別に応援歌指導員による点呼が行われる。「あべーーー!」「おーーーっす!」を10クラス同時に行うのでかなり異様だ。点呼後に学年全体で歌を合わせる。合わせるといっても別にハーモニーが発生するわけではない。なにが合えばいいのかよくわからないが、たぶん「気合」的な何かなのだろう。以下のビデオは運動会での館歌の様子だが、こういった感じが目指されている。

幾度かのダメ出しを経て、応援歌指導員たちが合格だとみなしたら、有り体に言えば規定の時間を越えたら、お待ちかねの儀礼の時間が始まる。「これでおまえたちも立派な修猷生たい!」とか「修猷を誇る人間ではなく修猷が誇る人間になれ!」とか「限界をつくるな!」とか、おそらく代々受け継がれている決め台詞を応援歌指導員たちが披露して終わる。その後、教室にやはり裸足ダッシュで帰ると、担当の応援歌指導員がうちとけた顔でフレンドリーに歓談を始める。イニシエーションは終わったのだ。

応援歌指導員と応援部員の違い

正確に言うと、修猷館高校の応援歌指導を担当する応援歌指導員とは別に部活動としての応援部が存在する。応援部は運動部の試合を応援しに行くことを主要な活動としていて、一度だけラグビー部が勝ち上がって全校応援があったときに応援部の応援を見たことがある。

応援部は常に零細だったので、部員数は多い時でも10人を超えなかったと思う。しかし、応援歌指導の際には各クラスに最低2名指導員が付き、それとは別に旗持や太鼓、全体の指揮が必要なので、25名程度の人数が必要になる。この足りない分をどうにかする必要がある。剣道部や柔道部から駆り出される強面もいるにはいたが、即席の応援歌指導員は文化部や生徒会系の男子生徒が多かった。これは、後から友人に教えてもらったのだが、文化部所属の男子生徒は9月に行われる運動会で強制的にエール(応援合戦)をさせられる。運動会のエールと応援歌指導には共通する要素が多いので、必然的に春の応援歌指導に向けてエール経験者の文化部の男子生徒が勧誘されるということだそうだ。

この臨時の応援歌指導員は春休みの間にトレーニングをしていた。正規の応援部員が指導して、おそらく走り込みや声出し、応援歌の練習をおそらく行っていたのだと思う。応援歌指導員たちは担当するクラスの生徒全員の名前を覚えていたので、体を鍛える合間にこつこつ暗記もしていたのだろう。先述の通り、もしかしたら担当する後輩の名前を覚えながらその合間に小石拾いをやっていたのかもしれない。

教員は表には出てこないが、学校行事なので事前に応援歌指導員たちへの指導はあったのかもしれない。少なくとも、応援歌指導員は彼らの基準で暴力は絶対に振るわなかった。応援歌指導で暴力行為が発生したら問題になるので、この一線は絶対に超えてこなかった。しかし、ここで重要なのは「彼らの基準で」というところである。少なくともわたしは胸ぐらを掴まれて廊下に連れ出された。これは一般社会の基準では暴力に相当するだろう。そもそも大声で威圧するというのは、それだけで一般的には暴力とみなされる。従って応援歌指導員は暴力を振るわないというのは、具体的には殴ったり蹴ったりはしないという程度の意味だ。漫画などでは竹刀を持った不良や体育教師というのがよく描かれるが、私の記憶の限りでは、応援歌指導員が竹刀を持って威嚇するということはなかったと思う。おそらくそういうことをしていたら剣道部からクレームがついただろう。

まとめ

覚えていることを出来る限り価値判断や評価を排除して書きました。みなさんの体験も教えていただけると参考になります。この記事には以下の二つの記事が続きます。「考察編」はこの応援歌指導のような慣習の旧制中学校の起源とそれが第二次世界大戦後も続けられたことによって果たした機能について書いており、「批判編」は応援歌指導という慣習に対しての批判が中心です。


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