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【北極星は一等星ではない。 -- 美術評『最果タヒ展:渋谷』】(2020年12月15日)

 渋谷parcoで開催中の最果タヒ展に行きました。

 原稿用紙でもなくパソコンでもなくスマートフォン片手に、スマートフォン世代の抱える若気社会の揺らぎを繊細かつ克明に綴る、新現代の詩人・最果タヒ。

 そんな彼女の詩が現代アートという新表現を介して、今、渋谷の真ん中で一等星のようにキラリと開催されている。--のは漠然と知っていました。

 最果タヒさんの詩集やエッセイ本が何冊も持っていることから、この人の言葉を自分は惹かれている。それも知っている。そして行ってみたい。だけど、外出規制のご時世で、まだ詩について疎い自分が行って、展覧会のメッセージを受け止めることができるのか。

「われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。」

 展覧会のサブタイトルから、どんなに努力しても一等星にはなれないのならば、「行った事実の未来」が字書きの6等星の夜に“標の光”を与えてくれるだろうと、待つだけの先にあるのは会場から消え去るだけ、ならばと、行きました。

 詳しい感想は後日に書く記事に託すとして、ひとえに「良かった」。

 詩人ではないので現代詩の批評とか偉そうなこと書けませんが、最果さんの言葉は「哀」に充ちている。

 例えば人は音楽を聴くことで救われる。人生が嫌になって孤独で、どうしようもなく空しいとき、苦しみや怒りを誰かと分かち合えるからだ。負の共感は誰かと逢えた幸運という橋渡しの形で人を救ってくれる。

 人と人は口でも手でも言葉でしか繋がる手段がない。

 ここにいない最果タヒさん。同じ日の同じ時間に展覧会に来た知らない6等星同士の距離を言葉の一等星が私たちを何かしらの星座にさせてくれる。それこそ「哀」で「逢い」で「愛」だ。

 北極星は一等星ではない。

 顔も本当の名前も知らないあなたの言葉に向こうも顔も本当の名前も知らない私が救われています。

 渋谷の一等星はペテルギウスの終焉みたいに20日に消えますが、一等星の詩が今この筆を動かすように、6等星の詩はスマートフォンの中の宇宙に今宵も漂っています。

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渡邉綿飴
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