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鏡と窓と:学びのための学びへ



追記:全文を公開しました

この文章は「鏡と窓」として知られる展覧会『Mirrors and windows : American photography since 1960』のカタログを一部邦訳し、解説したものです。
当初は自作のペーパー「写真について」のVol.2にて公開したものですが、Webで全文公開することにしました。

オリジナルのカタログ(PDF)・展示風景・プレスリリースなどは、MoMAのWebサイトで公開されています。
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2347

鏡と窓と:学びのための学びへ

美術史が大切、らしい。勉強して、レファレンスとして歴史を作品に取り入れ、文脈の上に作品を置く必要がある。誰かに言われたのか、自然とそう考えたのだったか。スタートがどうあれ、自分の作品にはなにかが欠けていると思っていた私の心に、この発想はするりと入り込んできた。きっと正解が、自分の知らない知識か秘密があって、それを学べば変わるのだという考えが頭を離れなかった。

鏡と窓も、そうして手探りで細切れの知識を拾い集めていくうちに学んだ言葉の1つだ。作者を映す鏡としての写真か、それとも外界を覗く窓としての写真か。言葉を聞いただけで直感的に理解できる明晰さ。シンプルなアイデアによって写真の性質が説明し尽くされている、そう思った。勉強が感銘につながり、作家としての引き出しを増やすことができた。一見すると理想的なストーリーだが、現実に目を向ければ、多くの問題を孕んだ、かなり歪な1歩だと言わざるをえない。

このよくある「学び」のどこがいけないのだろうか。白状すると、鏡と窓についてきちんと調べ、原文に当たったのはかなり後になってからで、それまでの間、私はこのアイデアについて根本的に勘違いをしていた。愚かだったと言えばそれまでだが、実は基本的な情報を確認しないという行動レベルのミスと、それによって生じた知識レベルの間違いの他に、もう1段階上の、メタレベルの間違いがここには存在する。そしてこの認知を正さない限り、愚かな「学び」は繰り返される。

鏡と窓の図録に収められた文章は、奇しくもこのメタレベルの間違いについて考えるためにも有用だ。鏡と窓に関するありがちな勘違いを正しながら、知識に関する知識、メタ知識についても確認していくことにしよう。


「鏡と窓」はMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された展覧会で、企画したジョン・シャーカフスキーは写真を自己表現的な「鏡派」と外界を探究する「窓派」の2つに分けた……と言われがちだが、正確にはそうではない。展示と図録が、PART I, II という形で写真群を分けていたのは確かだが、これはいろいろな但し書きがついた上の分節で、あえて誤解を産みかねない形にされていたというのだ。

この展示会の正確なタイトルは ”Mirrors and windows : American photography since 1960” である。同展示の図録冒頭の文章はこう始まる。

本書において私が目指すのは、過去20年間にアメリカで発達した写真の技術について、公正かつ、批評的に明確な視座を提供することである。ただ正確なだけではなく、わかりやすくもありたい、と言い換えても良いだろう。この2つの理想がぶつかるような場合には、漠然とした真実よりも明らかな間違いの方が有益かもしれないという見地に立ち、出来るだけ明快さを優先したいと思う。

Mirrors and Windows: American Photography Since 1960, John Szarkowski, The Museum of Modern Art, New York, 1978,  p. 11

筆者によると、1950年代は様々な社会・経済・技術的変化によって、写真の取り扱う対象(もしくは写真が取り扱いうる対象)が社会的関心を集める出来事から「私的」"personal" な出来事へと移行し始めた時代であった。そんな過渡期を経た後の時代となる1960年から展示が行われた1978年までの間、アメリカの写真表現は『ますます私的』"increasingly personal" になっていた。(p. 14)

この「私的」さは、1950年代に活躍し、後続に影響を与えたマイナーホワイトとロバートフランクの表現の違いを雛形として「自伝的・自己分析的な傾向がある」”leans toward autobiography, or autoanalysis” という意味と『一般的・主流ではない』"not popular" という、別々の意味を持った2つの「私的さ」に分けられると筆者は主張する。(pp. 18-21)
つまり「鏡と窓」とは本来「私的さ」を前提とした考え方で、自己表現的な「鏡」に対する「窓」もまた私的な意味での窓なのであり、例えばLIFE誌のベトナム戦争の報道写真などは「窓」の典型ではないのだ。(※1)

シャーカフスキーは1960年から当時の最先端(1978年)のアメリカにおける写真表現を、前段となった1950年代の具体的な影響から検討しており、その分析ツールとして編み出された「鏡と窓」もまた、かなり限定的な概念であった。もちろん、このツールの射程は当初の想定よりも広かったと言っていい。だからこそ後にさまざまな対象に応用されてきた。だが当初は「写真とは……」というような壮大な語り口のための概念ではなかった、という事実は押さえておきたい。

しかし「鏡と窓」という言葉には複雑な前提を抜きにして引用したくなるキャッチーな魅力がある。その源は、この言葉が漂わせる二項対立的・本質主義的な気配ではないだろうか。著者であるシャーカフスキーもこの引力を認識し、危惧していたのだろう。タイトルや展示方法とは一見矛盾しているが「鏡と窓」は写真をふたつに分けるためのコンセプトではないと繰り返し書いている。

ここまで続けてきた分析の目的は、写真を2つに分けることではない。むしろある連続体を、2つの極を持った1本の軸を提示するものだ。

p. 25

文書はこう続く。

本書に収録された写真の多くはこの軸の中心近くに位置しており、読者は頭の中で好きなように本書が仮に配置したのとは反対側のパートに移動させることができる。さらに検討を重ねれば、筆者も同様の修正を加えるだろう。

p. 25

両端に極端な概念を置いた1本の軸と表現したことで、その間には無限のグラデーションが生まれ、またある写真をどこに差し込むのかは、それぞれの感性に委ねられる。この柔軟さを持った枠組みを、筆者はストレート写真か、それ以外かといった ”real” で不動の分類とは異なるものとして提示している。(p. 22)
このように、なにかを分析するためにある概念を導入するのは、時系列を整理したり、手法で分けるといった事実ベースの分析方法とは完全にカテゴリが異なる。冒頭の私は、この分節を認識せずに、まとめて「事実として勉強すべきもの」として向き合っていたが故に、その輪郭を掴めずパニックになっていたのだった。そして、この分節を学ぶことこそが、冒頭で触れた知識に関する知識 を知ること、メタ認知である。

ここまで鏡と窓に関する具体的な誤解について確認してきた。先に述べた通り、こうした間違いの間接的な原因は、さまざまなメタ認知を欠いたまま「勉強」をしてしまうことにある。エッセイの最後、分析ツールの効用と限界について書かれた部分が、メタ的な知識についての鮮やかな解説と助言になっているので引用しよう。

ある一軒の家からは、全体の構造の理解に役立つさまざまな断面図を取り出すことができる。だが、これらの断面図は単なる分析装置であって、当然ながら全体よりも小さなものしか説明していないことを理解しておくべきだ。こうした分析は、どうしても対象の完全さを脅かしながら説明することになる。好奇心に任せて物事の本体を切り開いたあとには、手付かずのままの全体こそが、謎めいていながらも、より美しいと認めることになるはずだ。

(p. 25)

この家の例えに沿って言うならば、私は「鏡と窓」を家の柱だと思っていたことになる。「鏡と窓」は確かに存在する写真の本質の1つで、誰かがそれを発見したのだと誤解していたのだ。だがシャーカフスキーが言うように、こうした概念は単に「勉強」できるような事実としては提示されていない。このメタ認知を持たないまま、概念ひとつひとつを素直に読み込んだ場合にどんな勘違いが起きるのか。

美術史の本を買ったが、作品を年代順に並べて様式分けする美術史は、歴史のとある地点から語られたもの、語りなおされうるものだと理解していなかった。アーティストが書いた写真史、美術史の本を素直に読んで「勉強」しようとしていた。「ニューカラー」を得意げに引用していたが、サリー・オークレアが刊行した3冊の写真集を見たことはなかった。(※2)
鏡と窓に関する一連の思い込みと誤解は、私の見るに耐えない失敗のなかのほんの一例でしかない。

ある知識がどういう知識なのか、というメタ認知を欠いた状態で、メタ知識という概念すら知らない状態で、闇雲な「勉強」から抜け出すことは難しい。だが私の場合、明け透けにいってしまえば自分の不遇・不運の理由を、自らの不能や作品にではなく、美術・アートの知識が欠けていることに求めて、納得しようとしていたのだと思う。知識は、簡単に1歩の感覚を与えてくれるものとしてただ存在していてくれればよかった。
なにかよくわからないが、重要らしいもの。神秘化した知識の可能性は無限大で、どんな言い訳も、未来もその中に見出すことができた。だが知識に関する知識を知れば、表面的な語彙の拡張を前進だとして心を慰めることは、もうできない。


※1:窓的な表現のプロトタイプとしてロバートフランクのThe Americans (1959) が名指しされていることを踏まえれば、「私的な意味での窓」を、例えば自動車の窓のようなものだと想像してもいいかもしれない。

※2: the new color photography (1981), New color/New work (1984), American Independents (1987) のこと。
”new color” というキーワードの入った前者2冊を見るだけでも、日本語で流通する「ニューカラー」のイメージとは必ずしも一致していないことがわかる。


全文公開のためのあとがき

実はこの文章、当初は『Mirrors and windows : American photography since 1960』の全文邦訳を目指してスタートしていました。
しかし翻訳権や自分の力量、体力の問題もあって、一部邦訳+精読をエッセーとして「写真について」Vol.2に掲載しました。

そしてこの2024年10月、雑誌「写真批評」の復刊第2号に河島えみさんによる『Mirrors and windows : American photography since 1960』の全文邦訳が掲載されました。
大変な労力だったと思います。(自分が諦めたので分かります)
実は河島さんとは原文の解釈や邦訳にアクセスできるようにする意義について少しだけやり取りをしていたので、どれだけ時間がかかったかもなんとなく想像できるのです。

というわけで、写真批評復刊第2号の刊行記念として(勝手に)私の文章を全文公開することにしました。今となっては直したい部分もありますが「写真について」紙面と同じ内容です。
私と河島さんの訳文を比べてみたり、全訳を読むためのガイドとして私の文章を使ってみてください。


写真について Vol.2 ※配布期間終了しました

全文はセブンイレブン ネットプリントで配布中の「写真について Vol.2」にて公開しています。→配布終了しました。内容の紹介はこちら

セブンイレブン マルチコピー機
料金:200円(プリント費用のみ)
プリント方法:プリント→ネットプリント
プリント予約番号:配布終了しました
プリント設定
カラーモード:フルカラー
できあがり用紙サイズ:A3
2枚を1枚:しない
両面:短辺とじ ※手動で両面印刷を設定する必要があります
小冊子:しない
ページ範囲指定:すべて(2ページ)
配布期間:2022/5/4 23:59まで

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