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祝祭はキスのあとに。 1話

■あらすじ(※結末のネタバレを含みます)

吉野七斗は吹奏楽部でトランペットを吹く高校二年生。系列大学の音楽科に推薦で進学するため、学業と部活に励む順風満帆な日々を送っていた。しかしある日、イケメンのサックス吹き・華谷響が突然海外からの帰国・復学と共に吹奏楽部に入ることになる。
華谷は吉野の幼馴染で親友だったが、彼は吉野を裏切るような形で留学に行っていた。そのためのらりくらりと復学した華谷を憎く思う吉野。数か月後に控えたコンサートを巡っても意見が衝突してしまう。
しかし前部長・須藤からの助言や、柔軟に音楽を楽しむ華谷との関わりの中で、吉野は次第に心から音楽を楽しむことの大切さや、自分にとっての華谷という存在の大きさを再認識するのだった。

■1話

 全国大会に進めない金賞、通称『ダメ金』で涙をのんだコンクールから、数週間が経つ。

「それでは、新しい部長を発表します」

 ――秋。
 祝央(しゅくおう)大学付属高等学校吹奏楽部にとっての、新たな始まりの季節。

 あと何日かで九月を迎えるというのに、相変わらず外は暑いままだ。
 クーラーをガンガンにきかせた部室で、引退の日を迎えた三年生の部長が手元のノートに書かれた文字を読み上げた。

「次年度の部長は――トランペットパート、吉野七斗(よしのななと)くん」

 自分の名前が呼ばれた瞬間、わっと室内に集まる部員から拍手が起きる。
 俺は座っていたパイプ椅子の上に楽器を置いて立ち上がると、一同が見つめる指揮台の上へ立った。

「このたび須藤先輩から部長を引き継ぎました、吉野です」

 自らが次期部長に指名されることは、既に一週間ほど前に聞かされていた。だからある程度の心構えはできていた。
 新たな決意を胸に、女子生徒が八割を占める集団を改めてぐるりと見回す。ちなみに中学時代から五年近く経験していれば、女子だらけの環境にもさすがに慣れた。

「至らない部分もあるかと思いますが、祝央の吹部を率いて行けるよう頑張ります。どうぞよろしくお願いします」

 用意していた挨拶を流れるように詠唱し、ぺこりと頭を下げる。
 再び湧き上がる拍手の中で顔を上げると、目の前には穏やかな表情で自分を迎え入れる部員たちの姿があった。

(……ああ、)

 いくら『計画通り』だったとは言え。改めてこの日を迎えると、感慨深いものがある。

 私立の総合大学として全国に名を馳せる、祝央大学。
 音楽専門の大学ではないながらも、祝央大学の芸術学部は、知名度や自由度の高さから音楽の道を志す学生の多くが憧れる学部だった。
 その付属高校である祝央高校に入学し、文字通り着実に経験を積み重ねてきたのだ。

 部活の先輩や仲間とは良好な関係を築き、夏休み前に行われた中間試験では学年上位。
 三者面談では、このまま行けば問題なく希望する学部に進学できると言われている。

 恵まれた環境で好きな音楽に打ち込んで、仲間からは羨望の眼差しを向けられて。
 きっと卒業するまで、この生活が変わることはないだろう。

 ――そう、信じていたのに。

「んじゃ、次の幹部も決まったところでそろそろ紹介しよっか! 我が部のニューフェイス!」
「え?」

 新たに役職に任命された部員による挨拶が終わり、やけに嬉しそうにノートをぱたんと閉じる須藤先輩。
 新入部員が入るなんて聞いていない。しかもこの時期から?
 怪訝な視線を送ってみるも、彼は爽やかな笑顔を浮かべたまま言葉を続けた。

「実は一年の時に入部希望だったんだけど、家庭の事情ですぐにアメリカへ行ってしまった生徒がいてね」
「え? は? ちょっと」
「ということで、改めて紹介します! 来月から二年生に復学する、華谷響(はなや きょう)くんです。みんな拍手~!」

 華谷響。
 その名前を聞いた瞬間、背筋が凍りつく。

 けれど心の準備なんてできる余裕もないまま、ガチャリと部室のドアが開いて――
 隣接する音楽準備室から颯爽と現れた男に、室内は一瞬にしてざわついた。

(な…………)

 自分が顧問なら、一発でアウトにしたくなるような明るい色の髪。
 まるで外国人のようなスタイルに、恐ろしいほどに整った横顔。
 その男を見た瞬間、俺はヒッと喉の奥で悲鳴を上げた。

「お……おま……」

 金色に輝くアルトサックスを携えた彼は、驚愕に震える俺を一瞥するとくすりと微笑む。
 そして指揮台に立つと、堂々とした所作で頭を下げた。

「初めまして。華谷響です。この秋から祝央高校に復学することになったので、どうぞよろしくお願いします」

 普段は統率が取れている女子部員でさえも今日ばかりは刺激が強すぎたようで、イケメンだの芸能人みたいだのと色めき立っている。その雑多な光景を前に、思わずくらりと眩暈がした。

「華谷くんは小学生の頃からサックスをやっていて、ニューヨークの高校でもずっと音楽を学んでいたそうです。同じパートの人はぜひ華谷くんから色んな技術を教えてもらってください」

 突然のことで理解が追い付かないこちらをよそに、須藤先輩だけが上機嫌に振り返る。

「あ、そうだ。吉野も部長として大変なことがあったら、色々手伝ってもらったらいいよ。だって吉野と華谷くんって『仲良し』だったんでしょ?」
(そんなの――)

 聞いてない。
 こいつが帰ってくるなんて、この学校の誰からも聞いてない。

 ましては、本人からも――

「聞いてないっ!!」

 秋、始まりの季節。

 五線譜に並べられた音符のように計算通りだった日々は、約一年半ぶりに再会した男のせいで、一瞬にして台無しになってしまったのだった。

 ――そう、一年半前、俺を裏切った男のせいで。

 ♩ ♩ ♩

 昇降口に着いたところで、ワイヤレスイヤホンから流れていた交響楽曲がタイミング良く終わりを告げる。
 イヤホンを外した瞬間、廊下にずらりと並ぶ女子の黄色い声が一斉に耳の中になだれ込んだ。

「おはよー、『部長』」

 教室の一番後ろの席でスコアを開く副部長――足立冴里(あだち さえり)と視線が合った瞬間、憎しみのこもった瞳で彼女をじろりと睨みつける。

「俺はまだ許してないからな。華谷のこと黙ってたの」
「うーわ、人聞き悪い! あたしだってパーリー(パートリーダー)の先輩からちょっと早く知らされてただけでしょ」

 中学時代は、所属する吹奏楽部で部長を務めていた冴里。ボーイッシュなショートヘアは、高校に入学した頃から変わらない。
 同級生として気が強い性格に振り回されることは多いけれど、彼女の裏表のない性格に助けられることも多かった。

「てかあのチャラ男と腐れ縁ならなんとかしてよ。あいつのせいで朝から出待ちヤバいんだけど」
「は? 出待ちって何」
「見て分かんない? あれ全部そうだから」

 辟易したような表情の冴里に倣い、廊下へ視線を向ける。
 教室のガラス窓から見えるのは明らかにわくわくした様子で廊下に並ぶ、同学年の派手めな女子たちのグループだった。

「え。もしかして華谷が戻ること、もう知ってて――」

 言いかけて、突如聞こえた甲高い声に反射的に耳をふさぐ。
 冴里の言った通り――女子たちの花道をくぐるように現れたのは、今日から高校に復学する華谷だった。

「……今日の部活、誰が部外に漏らしたか取り調べからな」
「賛成ー」

 熱烈な歓迎を受けて廊下を歩く華谷は、まるでアイドルのように愛想の良い笑顔を振りまきながら迷うことなく俺たちのいる教室へ入ってくる。

(嘘だろ!?)

 これは大変だ。部活どころかクラスも一緒? 勘弁してくれ。一体誰が、俺と華谷を同じクラスにしやがったのだろうか。

「なー……」

 教室へ足を踏み入れた華谷が、ぐるりと室内を見回す。
 そしてその憎たらしいほどに綺麗な茶色の瞳が、俺の存在を捉えた瞬間。

「なーちゃん!!」

 一直線にこちらへ突進してきた華谷は、俺の肩を掴むとがくがくと前後に揺さぶった。

「もー、一緒に登校しようってメッセージ送ったじゃん! なーちゃんがいないせいで俺迷っちゃったよ。遅刻するかと思った!」
「見てない。てかお前のことブロックしてるし」
「冷た! ブロられてるのは知ってたけど!」

 うんざりするほど朝から高いテンションの華谷に反して、教室内はさあっと波が引くように静まり返る。

「どうしてあんなイケメンが、よりによって吉野くんのところに行くの?」
「華谷くんが『なーちゃん』って呼んでるの、なぁぜなぁぜ?」

 ――そんなの、誰よりも俺が聞きたい。

 ♩ ♩ ♩

 始業式の間も、合間のたった10分の休み時間も、華谷のつきまといはそれはもうしつこいものだった。
 ようやく『なーちゃん』攻撃が落ち着いたのは、放課後、部活が始まってから。
 サックスのメンバーに華谷を押し付けて自由の身になるや否や、ここぞとばかりに朝から溜まった鬱憤を音楽準備室でまき散らした。

「先生、助けてくださいよ。華谷と俺、同じクラスにさせられてたんですよ!? 絶対仕組まれてる! ただ中学が一緒だったってだけで!!」
「まぁまぁ、落ち着きなって」

 準備室のデスクに座る吹奏楽部顧問――飯田吾郎(いいだ ごろう)は、最近気になりだした腹回りをさすりながら糖分高めのカフェラテのチルドカップを飲んでいる。背後では冴里が呆れた表情でトロンボーンを磨いていた。

「僕も二年の担当じゃないから詳しいことは知らないけど、転入生だからねぇ。学校生活に早く馴染めるように、配慮することはあると思うよ」
「でも部活も一緒でクラスも一緒とか絶対無理です! ただでさえ勝手に途中入部されること自体迷惑なのに!」
「おいおい、そんなひどいこと言っちゃだめだよ! 華谷くんはやる気満々なのに」
「そうよ。同じ高校に進学するくらい仲良かったんじゃないの? 当時のあんたたちの話、隣の町で吹部やってるあたしの耳にも入ってきたくらいなんだけど」

 飯田先生と冴里、ふたりから同時に責められて、居心地の悪い思いがする。

「確かに中学では仲良かったけど……でも、あいつは俺に何も言わずに海外行ったんだぞ! ずっと待ってたのに、入学式にも来なかったし……」
「だから家庭の事情だって言ってたじゃない。きっと色々あったんでしょ。華谷だって前向きに部活に参加してるんだし、あんたもう少し他人に優しくなんないとモテないわよ」
「なっ……!?」
「僕も娘が大きくなったら留学とか行かせた方が良いのかな。いやいや、パパの元から離れちゃうなんてムリ!! でも可愛い子には旅させろって言うし……」
(もうダメだ……)

 写真立てに飾られた可愛らしい赤子に頬ずりする先生を眺めながら、深くため息をつく。

 実際、これは俺と華谷の問題だ。
 中学時代、ふたり揃って音楽の道に進むべきだと言われていた俺達の間に、何があったのか。
 どうして憧れていたはずの祝央での学校生活を捨てて、華谷は突然海外へ行ってしまったのか。

 華谷について、俺自身が理解できてないことは多い。
 そんな状況で事情を話したところで、周囲からの理解は得られないだろう。

(……それに全部話すことなんて、できる訳ないし)

 そんな諦めの感情と共にトランペットを抱え、パート練習に戻ろうとした時。
 少しだけ開けられた準備室の窓から、微かにサックスの旋律が聞こえてきた。
 まるで水が流れるような滑らかなメロディに、飯田先生もわずかに腰を上げる。

「あれ、誰か外で練習してるのかな」
「ロングトーン上手っ。誰?」
「……!」

(あいつの音だ)

 気付いた瞬間、勝手に足が動く。
 勢いよくドアを開けて準備室を飛び出し、廊下を走り――
 音色に導かれるように駆けていけば、やがて校舎の西の果てへとたどり着いた。

「な……!?」

 その音色に興味を惹かれたのか、俺の背後を追いかけてきた冴里は目の前に広がる光景に顔をしかめる。
 廊下の端から外階段へと続くドアには、既にへばりつくようにして数人の女子部員が外の様子を伺っていたのだ。

「ちょっと、あんたたちパー練しなさいよ!」
「だって華谷せんぱいがひとりで練習してるんですよう」

 打楽器のスティックを持ったまま、後輩の女子が頬を紅潮させて冴里を見上げる。
 彼女たちが見つめる先――屋上へと続く外階段の踊り場では、確かに譜面台に立てたチューナーを前に練習に励む華谷の姿があった。

「華谷……」

 その姿が数年前の光景と重なり、思わず目を瞬かせる。
 リードから唇を離し、少しだけ考えるようにチューナーを見つめていた華谷は、再び楽器に息を吹き込んだ。

(!)

 ここ数年聴いていなかったところで、耳が、身体が覚えている。
 あまりにも聴き慣れたフレーズに、胸の奥がどくんと不穏にざわめいた。

「あれ、シェヘラザードだよね……!?」
「先輩ロマンチック……やばい……」

 シェヘラザード。千夜一夜物語。
 俺と華谷が中学時代最後のコンクールで演奏し、県大会への出場を掴み取った曲だ。

「ロマンチック? 冴里せんぱい、シェヘラザードって何ですかぁ?」
「シェヘラザードは、千夜一夜物語っていう昔話に登場する女の人のこと。女性不信になった王様に殺されないようにするために毎晩面白い話を聞かせて、最後は王様の妃に迎えられたっていう」
「へぇぇ……確かにロマンチックですねぇ」
「そう? あたしにはよく分かんないや。バルトークの舞曲とかの方がかっこいいじゃん」

 盛り上がる冴里と後輩たちの横で、華谷が演奏する姿から目を離せない。

(……何を今さら、)

 俺を見捨てて海外に行ったくらいだ。『過去』は全部捨てて来たんじゃないのか。
 そう思うと、今ここで彼がこの曲を吹く理由がさっぱり分からない。
 シェヘラザードは許されたかもしれないけれど、俺は絶対にお前のことを許さないからな。

 一同がその旋律に聴き惚れる中、俺はひとり、その場を後にした。

 ♩ ♩ ♩

「なーちゃん」

 改札を出た瞬間、聞き覚えのある声が自分の名を呼び、びくりと反応する。
 視線の先に華谷がいることに気付いたと同時に、どっと一日の疲れが全身に押し寄せた。

「……お前さあ」

 深く深くため息をついてから、重い足取りで華谷の元へと向かう。
 柱に背中を預けた華谷は、こちらに微笑みかけながら耳元のイヤホンを外した。

「俺が帰ってくるまで、ずっと駅で待ってたのか?」
「まぁね。なーちゃんが見えた時、ちょうどアルバム一枚聴き終わるところだった」
(くそっ!)

 やることなすこと自分と同じでイライラする。けれど同時に頭の中に浮かんだのは、放課後の冴里の言葉だった。

『華谷だって前向きに部活に参加してるんだし、あんたもう少し他人に優しくなんないとモテないわよ』
(何がモテないだよ、冴里のやつ……)

 偉そうな冴里の言葉を思い出し、ぎぎ、と歯ぎしりをする。
 別にモテたい訳ではないけれど、確かに一度華谷とふたりで話をする必要はあるだろう。

「……帰るぞ」
「あれ、いいんだ?」
「別に。途中まで帰り道が一緒なだけだから」

 このまま気まずく高校生活を送るのも居心地が悪いし、一度くらいは華谷と向き合わなくては。
 ――そして、できればもう、自分には関わらないでもらいたい。

 食べ盛りの男子高校生たるもの、部活を終えて自宅に帰宅してから夕飯を食べるなんて、とても空腹が間に合わない。
 コンビニで各々軽食を買ってから、近くの公園のベンチに腰かける。
 日没後の公園に人気はなく、目の前のブランコは寂しく風に吹かれて揺れていた。毎日少しずつ日が短くなっているのは感じるものの、外は相変わらず夕方でも汗ばむほどの気温だ。
 なんとなく落ち着かず、コンビニで買った焼きそばパンを食べられずにいる俺の横で、華谷はマイペースにスマホをいじっている。

(お前……待ってたんならなんか喋れよ!)

 しびれを切らし、俺は半ば負けたような気持ちで華谷に声をかけた。

「……アメリカでもやってたのかよ、音楽」
「もちろん! 毎日吹いてたよ。近所のジャズバンドにも混ぜてもらってたし」
「ジャズ? 吹奏楽じゃなくて?」
「そう、ジャズ。だって俺サックスじゃん。吾郎ちゃんにも上手いねって褒めてもらった」
「ふーん……ってお前、飯田先生のことそんな呼び方してるのか!?」

 どんなに相手が年上でも、どんなに相手が偉くても、躊躇わずに懐に入って行くような華谷の態度を、昔から決して好ましくは思っていなかった。
 フレンドリーで、悪く言えば人たらし。
 努力しか取り柄がないような不器用な自分からすれば、彼の天賦の才を何度妬んだか分からない。

「飯田先生は入部を許したかもしれないけど、俺はこの部活で部長として結果を出して、推薦で祝央大の芸術学部に進学する。だから華谷に構ってる暇なんかない」
「え?」
「お前が吹奏楽部に入るのを止める権利は俺にはない。でも途中から入部する以上、部長である俺の言うことは聞けよ」
「なーちゃん……」

 驚いたような表情で、華谷はじっとこちらを見つめる。まずい、言い過ぎたか。明日飯田先生か冴里にチクられたら、また咎められてしまう。
 けれど華谷は両手を口元に当てると、感無量といった様子で声を震わせた。

「なーちゃん、かっこいい……」
「は!?」
「昔はあんなに小さくて可愛かったのに……会わない間にずいぶん俺様キャラになったんだね。まぁ小さくて可愛いのは今も変わんないけど……」
「違う! てかお前馬鹿にしてるだろ!!」
「あはは、だってこんなに凛々しくてかっこいいなーちゃんが見られるとは思わなくて」

 かっと頭に血がのぼって声を荒げるものの、俺の抗議は華谷の笑顔にさらりと流されてしまう。こいつ、完全に俺を舐めている。
 けれど怒るこちらをなだめるかのように、華谷は優しい笑顔をこちらへ向けた。

「パートの子に聞いたよ。なーちゃんは誰よりも練習して、誰よりも真面目に部活に取り組んで、部長になったって」
「当たり前だ。さっきも言ったけど、俺は推薦狙いだからな」
「ふふ。さすが俺のなーちゃんだね」
「お前のために頑張ってる訳じゃない! しかも勝手に所有物にするな!」

 相変わらずこちらの反応に楽しそうな笑い声を上げながら、華谷は目元に垂れた長い髪を耳にかける。
 その何気ない仕草に、どくん、と心臓が奇妙な音を立てた。

「……お前、ピアス開けてたっけ」
「ピアス?」

 一瞬きょとんとした表情を浮かべ、耳たぶに触れる華谷。

「……あぁ」

 彼はようやく理解したようで、ふわりと表情を和らげた。

「まぁ、向こうにいた時にね。穴開いてるだけでも怒られちゃうかな」
「帰国生待遇で許されるんじゃないの。俺は穴塞がるまで部室に入れないけど」
「うわ、厳しー」

 その耳には、何色の石が付いていたのだろう。無意識にそんなことを考えて、ちくりと胸の奥が痛む。

(……ピアスだけじゃない)

 人たらしなところも、道行く女子たちが振り返るくらいイケメンなところも、相変わらず俺が知っている華谷のままだけど。
 向こうで呑気に遊んでいたのか肌はずいぶんと健康的な小麦色になっているし、身長差だってさらに大きくなった気がする。

 たかが一年ちょい会っていなかった男の、ましてや自分を裏切った男の変化に、どうしてここまで心を乱されるのか分からない。

(……分からない、けど)

 再会早々俺だけが華谷に翻弄させられているのは、紛れもない事実だった。

「なーちゃん」
「……何だよ」

 そんな自分の心の内まで図々しく覗いてくるかのように――
 華谷は、ずいっと視線を合わせるように、自らの顔を近付ける。

「ごめんね、今まで」
「!」
「俺のせいで……なーちゃん、ずっと寂し――むぐっ!」

 どこまでも生意気なイケメンの口に、持っていたパンを思い切り捻じ込んでやる。
 まるで自分がいないと『なーちゃん』は生きていけないとでも思っているのだろうか、この男は。
 目を白黒させながらパンを咥えるその姿さえもサマになるのが憎らしくて、俺は乱暴に鞄を掴むとベンチから立ち上がった。

「お前がいなかったからって、俺は別に寂しいと思ったことなんて一回もない。調子に乗るなよ華谷響!」

 感情のままに言い捨てて、彼の元から走り去る。
 自宅に着くまで、一度も後ろは振り返らなかった。

 ♩ ♩ ♩

 今日は素晴らしい朝だ。
 なぜかと言えば、いつもより30分も早く目覚めることができたから。

 朝は苦手だけれど、こんな日は早めに登校するに限る。
 案の定駅には毎日のように待ち伏せをするストー……華谷の姿はなく、俺は久々にひとりで高校へ向かっていた。

 混み合う車内に立つ人々の隙間から見える窓の外からは、見慣れた街の景色。
 極端な田舎でもなく、かと言って栄えている訳でもなく、中途半端な風景だ。

 ――窓の外がもしニューヨークなら、どんな風景が見えるんだろう、なんて思ったりして。
 電車に揺られながら、ふとメッセージアプリを開いた。

(……そう言えば、ずっとブロックしてたんだよな。華谷のこと)

 あいつとプライベートなやり取りをする気は全くないけれど、これから部活で緊急の連絡を取り合わなければならない機会はあるかもしれない。
 メッセージが送り合えないからと言って、鬼電されたり家に押しかけられたりでもしたらたまらないし。

 そう思った俺は、恐る恐る『ブロック解除』のボタンを押した。

 瞬間。

(……うわ、うわ!)

 ボボボボボ、と激しいスマホの振動と共に次々と受信されていくメッセージに慌てる。
 どうやら華谷は、ブロックされている間も事あるごとに連絡を寄越していたようだ。

 ――とある日には、明らかに格好つけたような後ろ姿の写真。

『今日はメトロポリタン美術館へ。あまり絵は詳しくないけど、どの展示も興味深かった』

(くそ、マウント取ってんじゃないっての!)

『とある交響楽団の演奏を聴きに。オケだけど学ぶことも多かったよ』

(うわ、カーネギーホールだ。すごいな……)

 相手からの反応もないのに、よくもまあ一年以上一方的にメッセージを送ってこれたな、この男はと思うけれど。
 興味深い写真の数々に、つい指先が上へ、上へと画面をなぞってしまう。
 けれどスクロールしていた手が、ふとぴたりと止まった。

 ――それは、昨年の四月に送られていたメッセージで。

『七斗、ごめんね』
『必ず上手くなって、必ず七斗のところに帰ってくるから』

(っ……)

 謝罪はあれど、華谷が俺の前から姿を消した『理由』については書かれていない。
 結局長らく見ていなかったメッセージアプリからも、当時彼が考えていたことを伺う手がかりは見つからなかった。

 ――その時。
 スマホが小さく震えたかと思うと、トーク画面が猛烈なスピードで下降していく。
 そこに表示された文章を見て、ぞっと背筋が凍った。

『なーちゃん、おはよ♡』
『え、うそ既読ついたんだけど』
『ちょっとなーちゃん見てんの!? てか今どこ!?』

(やば、気付かれた!!)

 再び止まらなくなる通知から逃げるように、俺はスマホを電源ごと切ったのだった。


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