祝祭はキスのあとに。 3話
「なーちゃん、覚えてない? 中学の頃のこと。あの時だって、たくさんのお客さんが俺たちの演奏を楽しみにしてた」
「っ……」
暗闇をまっすぐに照らすスポットライト。
眩い光の反射で、きらきらと宝石のように輝く楽器たち。
客席から立ち上がり、割れんばかりの拍手を送る人々の笑顔。
心の奥の奥にしまい込んでいた記憶の箱が、華谷によって無理矢理こじ開けられそうになる。
(……やめろ)
当時の記憶は久しぶりに思い出すにはあまりにも眩しくて、俺は脳内に広がる美しい景色をかき消すように小さく首を振った。
(……でも、正しいのはお前だ)
華谷は、音楽の本質が分かっている。だから華谷から指摘されて、ムカつくよりも悔しかったのだ。
『いくら楽器が上手くても、人前で披露しなければ意味がない』。
――その事実を長らく忘れていた、自分のことが。
「……変わんないな、華谷」
「え?」
きょとんとする華谷を前に、小さく苦笑する。
「いつもお前は、聴く側のことを考えてたよな。お前の言う通りだ。音楽は、演奏者とお客さんがいて成り立つものだ」
それを忘れていたから、今年の夏は『ダメ金』だったのかもしれない。
もちろんたったひとりの部員の気の持ちようで、全てが変わる訳ではないけれど。
(でも、華谷がいなかったから、俺は――)
しばらく目を丸くしてこちらを眺めていた華谷は、やがてゆっくりと手を伸ばす。
そして乱れた髪を整えるように、俺の前髪を優しく撫でた。
「俺はさ、なーちゃんとまた楽しく演奏ができれば、それで十分。なーちゃんもそう思ってくれてたら、これ以上の幸せはないんだけど」
「…………」
(俺は……)
しかし華谷はこちらの返事を聞くよりも前に、思わぬことを口にした。
「そう言えば足立さん、すごい可愛くなったよね」
「はぁ!?」
あまりに脈絡のない話題の転換に、ズコッと膝から崩れそうになる。
「覚えてるよ。今泉中の吹部の元部長でしょ? 俺、小学校で仲良かった友達が今泉行っててさ、定演も見にいったことある」
「お前、冴里のこと狙ってるのか?」
「え?」
「あいつ、女子のライバル多いぞ。冴里はファンクラブがあるくらいだから。今年のバレンタインとか、大量に貰ったチョコ律儀に全部食べようとして鼻血出してたし――」
自分でも不思議に思うほど、まくし立てるように言葉が口から飛び出る。そんな様子を見ていた華谷は、やがて耐えられないと言った様子で噴き出した。
「ぶはっ……! なーちゃん、ほんと可愛い」
「は!? なんで今の話でそんな返しになるんだよ!」
「だって、なーちゃん全然分かってないから」
そう言って、少しだけ温度の低い指先が、ひんやりと頬に触れた。
「俺が狙ってるのは、今も昔もなーちゃんだけなんだけど」
「な――」
まっすぐにこちらを見つめる瞳の奥に静かな熱を感じて、思わずごくりと喉が鳴る。これはこいつの変な癖だ。そうだ、こいつは妙にロマンチストなところがあるのだ。
「妬けちゃうよね。なーちゃん、なんで足立さんには名前で呼ぶのに俺は華谷なの?」
「え……だって冴里は会った時からあんな感じだし、名前で呼んだ方がしっくりくるって言うか……」
「はーい。そういうの差別って言いまーす」
「お、お前だって変な呼び方やめろよ! なんで俺だけそんな呼び方するんだって、クラスの女子がしつこいんだよ」
「あれ? 今まで俺、なーちゃんって呼んでなかったっけ?」
「呼んでない!」
「そっか。じゃあ『七斗』」
「ぶっ」
心臓にどすんとダメージを食らい、思わず腕で口を押さえる。
確かに中学生の頃から、華谷は俺のことを名前で呼んでいたはずだ。なのにイケメンに低音で名前で呼ばれる、この居心地の悪さは何なのだろうか。
「……やっぱり名前呼びはやめろ」
「えー? なーちゃんでいいの?」
「うるさい!」
くだらない言い合いを繰り広げていれば、最終下校の時間を告げるチャイムが鳴り響く。思わず顔を見合わせ、俺たちは校舎へ戻るべく急いだ。
「ところでなーちゃん、今週の日曜空いてる?」
「え、今週? 部活は休みだし、特に予定は……」
「んじゃ、デートしよ♡」
そう言って俺を追い越し、ひらひらと手を振りながら階段を降りていく華谷。
「時間とか待ち合わせ場所とか後でメッセージ送っておくから。ちゃんと見てね」
(デ……)
「デート!?!?」
自分でも恥ずかしくなるほどのすっ頓狂な声が、秋の夜空に消えていく。
やっぱり、華谷の考えていることはよく分からなかった。
♩ ♩ ♩
閑静な住宅街に佇む『よしのピアノ教室』。
吉野七斗こと俺は、金融機関に勤める父と、ピアノ教室を運営する母の元に生まれた。
何歳からピアノを始めたのかは、よく覚えていない。恐らく自分の年齢を自覚するよりも前に、ピアノの前に座らされていたからだ。
幼稚園が終わったらピアノの練習。
小学校から帰ったらピアノの練習。
放課後にゲームをしようと話すクラスメイトをうらやましく思いながら、俺は毎日学校が終わるとまっすぐ家に帰っていた。
『七斗は、きっと将来日本一のピアニストになれる素質があるわ』
そんな、母親の言葉だけを信じて。
――けれど、そんな自分がピアノを『やらされている』ことに気付いたのは、小学六年生の時に出場したコンクールだった。
暗いステージがぱっと明るくなり、グランドピアノの前に座る自分にスポットライトが当たる。審査員は、明るく照らし出された自分だけをじっと見つめていた。
鍵盤の上に指を置いて、置いたけれど、どの音から弾けばいいのかが分からない。
今から自分は、何の曲をやるんだっけ。
そもそもどうしてピアノを弾かなければならないんだろうか。
――いったい、『誰』のために?
あろうことかステージ上で失神してぶっ倒れるという黒歴史を作った俺。その一件があってから、母はピアノに関して何も言わなくなった。
いくら楽器が上手くても、人前で披露しなければ意味がない。
生き甲斐だったものを失って、これからどう生きればいいのかも分からない。
空虚な心を抱えたまま、俺は地元の中学に進学した。
生まれてから今まで熱心に打ち込んできたものを失い、一体これから先どうして生きて行けば良いのかと、中学生ながらに思い悩んでいたのだけど――
「なぁ!」
放課後、廊下を歩いていれば、突然背後からぎゅっと腕を強く引かれる。
驚いて振り返れば、見知らぬイケメンが立っていた。
真新しい制服を見るに、どうやら同級生らしい。けれど彼は同い年とは思えないほど大人びていて、明らかに周囲の陽キャたちが放っておかなさそうなオーラがあった。事実、彼の背後では、女子の集団がちらちらと好奇の視線を送っている。
「君、吉野七斗でしょ?」
「……そうだけど」
「俺は華谷響。噂で聞いたよ。君、ピアノ上手いんでしょ? 突然なんだけど俺さ、音楽できる人探してるんだよね」
「え……」
彼がやっているようには正直見えないけれど、まさか合唱部の勧誘だろうか。実際、合唱祭やら入学式やら、ピアノが弾けるというだけで駆り出される機会は昔からよくあったのだ。
「……ピアノはもうやめた。もう人前で弾くことはないよ」
もう誰も、期待しないで欲しい。そんな思いを込めて、ぶっきらぼうに答える。
愛想のない返事に、がっかりされるかと思いきや――
華谷というイケメンは「本当!? ちょうど良かった!」と表情を輝かせた。
「あのさ、俺と一緒に吹奏楽部入んない?」
「は?」
「昨日体験入部で先輩から聞いたんだけど、今年トランペット志望の人が全然いないんだって」
確かに華谷の目的は部活に関することだったようだ。けれどあまりに脈略のない話に、俺は思わず眉をひそめる。
「今言っただろ。俺がもう人前で楽器を弾くことはない」
「『ひとりでは』だろ?」
「え?」
思いがけない発言に、どきんと心臓が跳ねる。けれど華谷は、軽い調子で言葉を続けた。
「確かにピアノってひとりで練習しなきゃいけないから孤独だよなー。でも、吹奏楽は皆で演奏するから結構楽しいぜ」
「そういう意味じゃ……」
「それにピアノ弾けるなら、ペットも一日で吹けるようになるよ」
「な訳ないだろ!」
そうして華谷に騙されるように吹奏楽部へ入った俺は、まんまとトランペットの魅力にハマることになる。
ちなみに小学生の頃からサックスを吹いていたらしい華谷は、初めて触れる金管楽器に四苦八苦する俺の横で、自前の楽器を自由自在に吹いては注目を集めていた。
そんな華谷の姿に、妙な闘争心が湧くのは当然で。
あいつの隣に並んで楽器が吹きたい。
あいつが見えている景色を、自分も見てみたい。
そんな想いで励んだ猛練習が功を奏し、いつの間にか演奏ではソロを任されるようになり、いつの間にか華谷と対等に楽器の話ができるようになって。
中学最後の定期演奏会では、華谷と共にスポットライトを浴びるまでに至った。
♩ ♩ ♩
部員一同がステージから捌けても、客席からの拍手はまだ続いている。
薄暗い舞台袖で俺の手を取った華谷は、人目を避けるように暗幕の陰へと身を隠した。
「華谷……?」
カーテンの隙間から差し込む眩いステージの光が、華谷の姿を照らす。
その瞳は三年間の部活動を終えた達成感と、冷めやらぬ終演後の興奮を表していた。
「ありがとう、七斗」
こちらを見つめる彼の瞳が、うっとりと優しく細められる。
「……俺と一緒に、ここまで来てくれて」
そうして、彼はそっと指先で俺の顎をすくい……。
――朝。
下半身に違和感を覚えて、むっくりと自室のベッドから起き上がる。
やけにリアルな夢を見た。これも華谷がいきなり帰ってきたせいか。
けれど、熱を持った自らの下半身が、あからさまに隆起しているのを自覚して――
俺は、深いため息と共にぐしゃぐしゃっと頭を抱えた。
(最悪だ……!!)
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