祝祭はキスのあとに。 2話
窓際から差し込む温かい陽射しに、思わず零れそうになったあくびをこらえる。
子守歌のようにのんびりとした口調で話す英語教師は、チョークの手を止めてくるりとこちらを振り返った。
「――じゃあ、この文章の音読を華谷くん」
隣の列を挟んで斜め前、退屈そうに頬杖をついていた男はゆっくりと立ち上がる。
「”I asked her out on a date yesterday, but she declined.”」
低い声で紡がれる流暢な英語に、教室内の女子からは声にならない悲鳴が漏れる。
たった一年と少し現地にいただけで、こんなに英語が話せるようになるものなのか。だったら三年間日本でだらだら勉強してないで、さっさと海外に行ってしまった方が良いような気もする。ちなみに格好つけて言ってるけど、お前それ彼女にフラれてるからな。
ときめきを含んだ視線を送る女子の様子をため息交じりに眺めていれば、席についてこちらを振り返った華谷と目が合った。
そして投げかけられる、得意げなウインク。
(~~っ! ウザい!!)
ありったけの目力を込めて睨み返すも全く効果はないようで、つくづくあいつをこの教室に入れた教諭陣を恨む。
残念な事実だが、アメリカ帰りのイケメンの復学は、高校生活に慣れてどこか中だるみしていた二年生のコミュニティに大きな衝撃を与えた。
休み時間は他のクラスの女子が見物に来てあたかも動物園のようだし、部活がない日の放課後はたいてい、巷で陽キャと称される派手な生徒たちの輪の真ん中にいる。
華谷が客寄せパンダになろうが痴話喧嘩に巻き込まれて暴力沙汰になろうが知ったこっちゃないけれど、どうか俺の進路を邪魔しないよう祈るばかりだ。
――けれどその願いは、さっそく無残にぶち壊されることになる。
♩ ♩ ♩
部活終わりの空き教室に、二年の部員が集まっている。
それぞれが好き勝手おしゃべりをする中、楽譜係のオーボエ女子・桐生芽衣(きりゅう めい)が息を切らして入ってきた。
「お待たせ。去年のプログラム、探すの手間取っちゃって」
「いーえ。んじゃ、二年会議始めますー」
自ら司会を買って出た冴里が、黒板に『クリコンについて』と書いた。
「今日の議題は、12月に参加する駅前のクリスマスコンサートについて。ちょっと早いけど、できれば今月中に演奏する曲だけでも決めたいと思います」
さながら教師のように教壇に立つ冴里は、俺の隣に座る華谷に視線を向けた。
「華谷のために説明すると、うちの吹部は毎年12月に最寄りの駅前で開催されるクリスマスイベントに呼ばれて演奏してるんだよね。もう何年も連続で参加してるから、新しく準備することもそんなにないんだけど。部長、何か意見は?」
「別に。特に力を入れるイベントでもないし、例年通りで良いと思う」
「てことは、曲目も去年とあんまり変わんないかもね。芽衣、プログラム貸して」
「はーい」
桐生は持っていた紙を冴里と俺に渡す。プログラムは曲目や部活の紹介を一枚の紙にまとめたもので、毎年イベント当日に観客や通行人に配っていたものだ。
「コンクール曲と、来年の定演(定期演奏会)で使う曲と、毎年やってるクリスマスソングが一曲……」
「アンサンブルコンペティションの準備もあるしな。コンペに出場する部員は忙しいし、そんなに張り切らなくていいだろ」
「まぁね。じゃ、みんな特に異論なければそれでー」
毎年繰り返していることに対して、あえて奇をてらう必要はない。
部長としても、ただ粛々と、ひとつひとつのイベントをトラブルなく遂行するのみだ。
「……待って」
けれど、意見がまとまりかけた教室内に、ふと落ち着いたトーンの声が響く。
隣を見ればいつの間に俺の手元から奪ったのか、華谷がプログラムを真剣な表情で眺めていた。
「クリスマスコンサートで、コンクールの曲なんてやるの?」
「え? まぁそうだけど」
「今年のコンクールで演奏したのってサロメでしょ? なんでそんな一般人に理解しづらい曲、クリスマスコンサートでやらなきゃいけないの?」
「なっ……!?」
いくらダメ金だったとは言えそれなりに思い入れのある曲をダメ出しされ、かっと頭に血が上る。
咄嗟に周囲を見回すも、一同はきょとんとした表情を浮かべていた。
「せっかく色んな人が見るんだから、もっと盛り上がる曲にしなよ。クリスマスイベントとして呼ばれてるんでしょ?」
「毎年そうやってるんだよ。余計な口を挟むな! お前も今からコンクール曲練習するのは面倒かもしれないけど、途中から入部した以上仕方ないだろ」
「そういう意味じゃないって、なーちゃん。俺は――」
少しだけ困ったように整った眉を下げ、華谷が反論しようとした時。
壁際の席に座っていた桐生が「でも」と声を上げた。
「一般のお客さんが知らない曲って、反応微妙だったりするよね」
「え……」
「確かに! 去年の学校見学とか覚えてる? あの時もコンクール曲やって、気まずって感じだったよね~」
「分かる~!」
「おい……」
桐生の後ろに座る女子も反応し、ふたりは明るい声で盛り上がる。その様子に思わぬ風向きの変化を感じて表情がこわばった。
慌てて同調してくれそうな人を探すが、偶然目が合ったホルンの男子も納得したように頷く。
「確かにクリスマスなんだし、お客さんに喜んでもらえる曲をもっとたくさん演奏した方が良いかもしれない。華谷くん、おすすめある?」
「どうだろう。定番の曲も盛り上がるだろうし、洋楽でもいいよね。ラストクリスマスとか」
「あっ、その曲僕も好き!」
(どいつもこいつも……!)
理想だけで物事を語る同級生の能天気さに辟易する。
プロに評価されるコンクールでもないのに、新しいことなんてやりたくない。
これまで何年も吹奏楽やってきて、新しい曲を演奏するには新たにスコアを調達して、パートを振り分けて、全体合奏の日も調整しなければならない労力すら分からないのか。
この状況を何とかしてくれと、縋るように冴里に視線を送ったものの――
冴里も「そう言えば」と、ぽんと手を叩いた。
「飯田先生もこの前言ってた。代が変わって、あたしたちでどんな部活にして行きたいか考えなさいって。コンクールで結果を出すことだけが部活動じゃないから、あたしたちが楽しくて、校外のお客さんにも愛される部活になったらいいって……」
ひとつひとつ、考えを巡らせるように話す冴里。やがて彼女は、にっと嬉しそうに笑った。
「すごいね、華谷。もうすっかり祝央の部員じゃん」
(な――)
「華谷くん、流石だね。自分たちのことだけじゃなくてお客さんのことも考えられるなんて」
「なんか楽しみになってきたなー。そうだ、皆でコスプレとかしちゃう!?」
(……付き合ってられない)
生ぬるい空気に耐え切れなくなり、黙って椅子を引いて立ち上がる。
「なーちゃん?」
「あ……ちょっと、吉野!?」
周囲が止める声にも構わず、力任せにドアを開けて教室を後にする。
バタンと激しくドアが閉まる音にちくりと胸が痛んだけど、その気持ちを打ち消すように奥歯を強く噛みしめた。
須藤先輩は、こんなに部長の仕事が思い通りに行かないなんて言わなかった。
――じゃあ、一体これは自分が悪いのだろうか?
♩ ♩ ♩
「吉野! ちょっと待ちなって!!」
あてもなく廊下を歩いていれば、バタバタと派手な足音を立てて冴里が追いかけてくる。
足を止めて振り返った俺を、冴里は今にも殴りかからんばかりの勢いで睨みつけた。
「あんたほんとそういうところだからね。部長なら、色んな意見も公平に耳貸しなさいよ」
「あいつは去年のイベントだって参加してないんだぞ。なのにあんな自分勝手な意見を採用するのか?」
「それも含めて皆で検討するんだってば。華谷だってこの部活の一員なんだから、何も発言しちゃいけない訳じゃないでしょ」
「っ……」
決して冴里を、部活の面々を困らせたい訳じゃない。
でも、組織を取りまとめる部長として、自分はすべき役目があるはずで。
口を閉ざす俺を前に、冴里は深くため息をついた。
「吉野。頼むからあたしを困らせないでよ。あんたたちが上手くやってくれないと、部活が回らなくなる」
「俺は部長として正しい判断をしようとしているだけだ!」
「だから――」
呆れと困惑が混ざったような冴里の表情を見て、再び胸の奥が痛む。
(……こんなつもりじゃなかったのに)
部長としても、華谷との関係も。
もどかしさのあまり拳を強く握りしめれば、ぽつりと本音が零れた。
「……全部、あいつが悪いんだよ」
「そうだね。俺が悪いよね」
「!」
不意打ちで耳元で囁かれた低音に、どきりと心臓が跳ねる。いつの間にか、背後には華谷が立っていた。
「足立さん、なーちゃんのこと借りていい?」
「お好きにどーぞ。仲直りするまで帰ってこなくていいから」
「じゃ、遠慮なく」
自分に向けられた悪口に怒るでもなく、華谷は俺の手をぎゅっと握る。次の瞬間、勢い良く手首を引っぱられた。
「え……ちょ、おい、華谷!」
手を掴まれたまま、廊下を駆け、階段をのぼり――
『立入禁止』と書かれた屋上の扉を、華谷は躊躇いもせずに開けた。
「……!」
ドアが開いた瞬間、ぶわ、と秋の涼しい風が吹き込む。
こいつ、まさか俺を屋上から突き落とす気か。
思わず身を固くしていれば、華谷は背中を向けたままようやく握っていた手を離した。
「ごめんね。部長の言うことは聞けって言われてたのに」
「…………」
「でも俺、好きなんだ。お客さんが楽しんでくれてる中で、スポットライトを浴びる瞬間が」
そう言って、華谷はゆっくりと振り返る。
頭上には、満天の秋の星空。涼しい風に吹かれて、彼のさらさらとした茶髪が揺れる。
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