渚で本が読みたい 3話
沖縄の雨は容赦ない。
ただでさえ憂鬱な月曜日にも関わらず、外は朝から派手なカタブイが降り続いていた。
そしてこんなに天気が悪い日は、なぜか良くないことが立て続けに起こるもので――
「せんせぇ、彼女いるねー?」
大粒の雨が、古い校舎に容赦なく打ち付ける中。
図書室の中から聞こえた女子特有の猫なで声に、どくん、と心臓が不穏な音を立てる。
今日は放課後おじいのいる市場に用があるからと、昼休みに図書室を訪れればこのザマだ。誰かに見られていないことを確認してから、俺は吸い寄せられるようにドアの隙間に耳を近付ける。
「――いよ」
こんなに雨の音が邪魔だと思ったことはない。けれど水滴が跳ねる音に混ざって聞こえたのは、紛れもなく天沢の声だった。
「……じゃあ、私が立候補してもいい?」
媚びるような甘ったるい声に、ぎゅっと喉の奥が詰まる。
これは告白だ。どうする、天沢春琉。
これまでふたりきりで過ごす時間が多くてうっかり油断していたが、そういえば彼は女子生徒にも人気が高かったのだ。
ここでもし天沢が頷けば、自分は完全に邪魔者だ。
もう一緒に飯を食いに行くこともないだろうし、ふたりきりで話す機会だってなくなるかもしれない。
(そんなの――)
選ぶのは、自分じゃないことなんて分かってる。
分かってるけど。
気付いたら、勝手に身体が動いていた。
「失礼しまーす!!」
「きゃっ!」
「な……」
ガラッと勢いよくドアを開けた瞬間、ふたつの視線がこちらへ注がれる。
ひとつは思わぬ来客に驚く天沢の視線。
そしてもうひとつは、どうしてお前が邪魔しに来るんだ、と恨みのこもった女子の視線。
「あ、えと……」
少年漫画の主人公ならここでイカした台詞のひとつでも言うんだろうけど、その後のことは何も考えていなかった。
まごつく自分を前に、ロングヘアの女子は明らかに機嫌を損ねた表情だ。やがて「またね」と唇を尖らせ、図書室の外へと駆けていってしまった。
「豊里くん――」
「邪魔してすんません! その……俺、この本借りようと思って!」
恥ずかしさやら気まずさやら、色々な感情がごちゃまぜになって、天沢と目を合わせることができない。
――とにかく、今はこの部屋から出なければ。
偶然机の上に置かれていた本を一冊掴み、急いで背を向ける。
「待って!」
いつになく切羽詰まったような天沢の声に、思わず足が止まる――けれど。
「あの、今のは……」
「……ずりーの」
「!」
「やっぱ先生ってモテるんすね! ただ都会から来たってだけなのにさ」
思わず口をついた言葉は、ブーメランで自らの胸をちくりと刺す。
さすがに呑気な天沢も、今のは怒っただろうか。それとも傷つけてしまっただろうか。
彼の表情を確認する勇気すら、自分にはない。
「……俺は誰にも言いませんから」
せめてもの償いに、彼が望んでいるであろう言葉を残して。
重苦しい空気が立ち込める中、開け放しにされたドアから逃げるように立ち去ったのだった。
𓆝 𓆝 𓆝
「……いや、完全に泥棒だわ。これは」
辞書のように分厚いハードカバーの本を閉じ、深く深くため息をつけば。
窓から黒板消しをはたいていた真栄田が、怪訝な視線をこちらへ向けた。
「確かに三国志は国盗り合戦の話だな」
「ちげーよ……この本の内容じゃねえって」
「だろうな。お前にこの本が理解できるとは思えない」
「お前ほんと失礼な奴だな!」
憤慨するも、真栄田は何食わぬ顔で机に置かれた本を手に取る。
「どうせ訳ありだろ……ほら、貸し出しの記録がない」
パラパラとページをめくり、裏表紙を確認する真栄田。
そして彼は真っ白な貸し出しカードに、ポケットから取り出した判子を押してくれた。
「一般図書の貸し出し期間は二週間だ。それまでせいぜいゆっくり考えろ」
「え……あ、どうも」
「あまり迷惑をかけるなよ」
「別にかけてねーよ。ないちゃーに迷惑かけられてんのは、どっちかって言うと俺の方、って言うか……」
「俺は今誰の名前も出してなかったけどな」
「…………」
真栄田の言っていることの意味が理解できず、しばしの沈黙。
ようやく気付いた時には、真栄田はさっさと教室を出ようとしているところで。
「やっぱりうぜーわお前!」
思わず吠えた声に、教室にいた面々は驚いて振り返ったのだった。
𓆝 𓆝 𓆝
真栄田がくれた猶予をろくに活用することもできないまま、あっという間に本の返却期限が来てしまった。
水曜日の放課後。時間的に、教員会議が行われているタイミング。
廊下から恐る恐る中を覗けば、図書室の電気は落とされている。
一方で部屋の鍵は開いており、これ幸いと忍び足で図書室に入った。
「豊里くん」
「!」
突然聞こえた声に、びくりと全身が反応する。驚いて周囲を見回せば、書架の間から天沢がちょこんと顔を覗かせていた。
「なんだよ……いたんなら電気付けてよ」
「ちょっと忘れ物取りにきただけだから。あ、もしかして教員会議の時間狙った?」
「う」
「その顔は図星かな? 教頭先生が出張だから今日はないんだ。悪かったね」
どこか自嘲気味に笑う天沢に、居心地の悪い思いがする。
何を言うべきか困っていれば、再び切り出したのは彼の方だった。
「この前のことだけど……ごめんね。変なところ見せちゃったよね」
「い、いや、別に!」
他人の事情に首を突っ込むなんてダサい。だから平静を装いたい。彼が切り出した『この前のこと』なんて、すっかり忘れてましたと言わんばかりに。
けれど天沢のことになると、顛末を聞かずにはいられなかった。
「あの後……また告白されました?」
恐る恐る聞けば、「いや、されてないよ?」と天沢は小さく首を振る。
「でもあの女子、絶対先生のこと好きじゃないですか!」
「そうかなぁ。三年生なのは分かるんだけど、ほとんど話したこともなかったような」
「そんなもんですよ。どうせ顔だけ見て好きになったに決まってる!」
これだからイケメンはと、呑気な天沢の返事にこちらの焦りばかりが募る。
「もし告白されたら……先生は、なんて答えるんですか?」
「え?」
聞いてから、しまったと顔をしかめる。答えによっては傷つくだけなのに、何を尋ねてしまったんだろう。
唐突な質問に天沢は一瞬きょとんとした表情を浮かべていたけれど、やがてすぐに真剣な表情に戻った。
「もちろん断るよ。慕ってくれる気持ちは嬉しいけどね」
「そう……っすか」
瞬間、心の中に広がったのは、安堵の気持ち。そして、恋する乙女の不幸を喜んだ罪悪感だ。
互いの間に流れる気まずい空気を振り払うように、俺はわざと明るい声で答えた。
「まぁそうっすよね! 都会から来た大人からすれば、こっちの高校生なんて世間知らずのガキにしか見えないだろうし」
「そうじゃないよ、豊里くん」
「え?」
珍しくきっぱりとした天沢の物言いに、無理に作った笑顔が強張る。穏やかな声に真剣さを滲ませ、彼は諭すように言った。
「年齢や場所を理由に自分を貶めるのは良くないよ。どこに住んでいようと、何歳であろうと、互いの関係は平等であるべきだ」
「す、すんません」
「……なんて、僕も偉そうに言える立場じゃないけどね」
そう言って、ふわりと天沢の視線が窓の外へ移される。
今日も相変わらずの灰色の空を眺めながら、彼は小さな声で呟いた。
「……断ったのは、僕が司書『教諭』だからと言うだけではなくて」
そうして、再び視線がこちらに戻されたかと思えば――
「僕は『ゲイ』だから」
「え……」
これまで、ただネットやSNSで見るばかりだったその『単語』が。
突如として、思わぬ人物の口から紡がれて。
どくん、と心臓が不穏な音を立てる。
「……なんて、急に言われても困るよね」
張り詰めるような緊張感を帯びていた眼差しが、ふっと和らぐ。
苦笑を浮かべるその表情はいつもの天沢のようでいて、少し寂しげでもあった。
「ごめん、今のは忘れてもいい。豊里くんは優しいから、その……つい、僕も本当のことを言ってしまって」
「え、あ……いえ」
さぞかし自分は間抜けな表情をしていたことだろう。
まるでこちらを安心させるためかのように、天沢は早口で言葉を紡いだ。
「不快な気持ちにさせてしまったのなら謝るよ。安心して。僕がゲイだからと言って、決して豊里くんを変な目で見ることはな」
「見てもいいですよ」
「え……?」
俺の返事に、つぶらな彼の瞳がこれでもかと見開かれて。
今度はこっちじゃなくて『大人』が固まる番だ。
無防備になった彼との間にできた距離を埋めるように、ずい、と一歩距離を縮める。
「つまりこの世には、先生が変な目で見たくなるような男がいるってことですよね?」
「いや、今のは例えというか、なんというか」
「別にごまかさなくても……ていうか先生はそうじゃなくても、俺が変な目で見ることはあるかも」
「な――」
驚きと混乱、そして焦りが入り混じる、天沢の表情。その顔を見て綺麗だな、なんて思ってしまう自分はどうかしているのかもしれない。
(もっと……知りたい)
もっと、目の前のイケメンの秘密を知りたい。
この学校でまだ誰も知らない、いや、知ってはならない、彼だけの秘密を。
そう思ったけれど――
「わっ」と不意に聞こえた小さな声に、天沢と共に弾かれたように振り返る。
中途半端に開かれたドアの向こうには、眼鏡をかけた大人しそうな女子生徒が驚いたような表情で立っていた。
「あ……あの、入ってもいいですか?」
「もちろん!」
そうして、天沢は俺の身体をぐいっと押しのけて女子生徒の方へ歩いていく。
「ごめんね、豊里くんとにらめっこしてた」
「は!? なんだよそれ……」
一瞬でいつもの調子に戻り、すたすたと生徒を迎え入れる天沢の背中に思わずツッコミを入れる。
彼の心にもっと近づくためには、まだもう少し時間がかかりそうだ。
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