めめの目から〜アダプト評⑤〜
9曲目。破壊と再生の曲『目が明く藍色』
ティザーの段階から同曲のイントロやCメロが使用されており、セットリストに入ってくることはまず間違いないだろうと思われていた同曲がここで入ってくる。実現することはなかったが、昨年出演予定だった夏フェス(ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021)では1曲目に演奏される予定だったことがサカナLOCKSでも明かされている。そのため、もしかしたら今回の1曲目に入ってくるのではないか、という予想も散見されたし筆者自身もあり得るなと考えていた。がしかし、実際にはライブ中盤のここに据え置かれた。アダプトの物語において、ここまでが第一幕ということなのだろう。その辺を踏まえて書き進めていきたい。
ここまで記してきた通り、今この時代は皆がそれぞれに生きづらく、自由の利かない閉塞感に苛まれている。疲弊に疲弊を塗り重ね、身も心も深い闇に沈澱するかのようにひしゃげてしまった。そして中には、命を投げ出してしまうほどの想いをする方も多く存在し、またどこかに病みを内包してしまうのも致し方ない、そんな毎日が続いている。そういった心模様をここまでの流れで丁寧に織り重ねた結果、同曲が持つカタルシスへと繋がっていく。それらを考えると、ここに置かれたのもなるほど納得のセットリスト順である。
また、間奏とDメロで描かれる赤と青のコントラストからは、表題と歌詞に出てくる目の色だけではなく様々なことをイメージさせる。内と外、表と裏、動と静、情熱と冷静、怒りと赦し、悲しみと歓び、生と死、正しい正しくない……etc.それぞれ思い浮かべることは違っているかもしれないが、筆者自身はここにも物事の二面性やその二律背反を感じてしまう。それらは無彩色ではないものの、結局このアダプトからは徹頭徹尾そのグレーな部分を感じずにはいられないのである。
さて、8曲目の『雑踏』と『壁』で終わらせる"覚悟"を感じたと記した。では何を終わらせるのか、という部分で前回は締めているのだが、個人的には「従来の固定観念を終わらせる(=破壊する)」という読み解き方をした。
まずサカナクションにとっては、これまでの音楽システムや世相を受けての停滞を指すのではないかと考える。というのも、今回のアダプトプロジェクトは冒頭でも書いた通り、オンラインライブ→リアルライブ→音源発表という従来とは逆のスタンスを取った挑戦的なものである(前回「834.194」時の結果的にそうなったは一旦置いておくとして)。これは様々な立場に対しての配慮もあったことだろう。ONLINEとTOURでセットリストを変えて欲しかったという声もあったが、あえて(ほぼ)同じにすることで依然ライブ会場へ足を運べない方々を救済する形になっているし、かたやリアルライブのみで良い、TOURのみに参加したいという層に対してもアプローチが成されている。これはつまり、どれかを体験せずともリスナーを取りこぼすことなく、来る音源発表までの足並みを揃える効果が期待できると考えられる。そしてそれは、停滞していた「ツアーやライブの再開(=再生)」引いては、続く「これからサカナクションが生み出す新譜(=「アダプト(適応)」→「アプライ(応用)」へと繋がっていく。
次に立場を我々に変えて記していきたい。こうなってくると本当に十人十色様々な立場があるためさらに想像の域を出ない訳で綴っていくことに若干の忍びなさも感じるのだが、まずひとつに「閉塞感の一時的な打破(=破壊)」が挙げられる。一時的なとしたのは、現在も油断できない状況が続いているからだが、好きなミュージシャンが何かしらの活動を行ってくれる、魅せてくれる、これほど嬉しいこともない。そしてそれは、例え一時的であったとしても閉塞感を緩めてくれる一助になったことだろう。また、ONLINEと武道館からの配信については、同じ時間に文字通り再生できたことも大きい。場所は違えど、同じライブを一緒に共有することができた。後者に関して配信組は会場に響く生音ではなかったかもしれないが、これらのライブの集大成を同じ時間にそれぞれの場所で見聞きすることが可能となり、これも「従来のライブからの脱却(=破壊)」のひとつだったように感じられる(以前も「10th」や「図鑑ゼミ」等で配信が行われたがこれも一旦置いておこう)。
そしてそれらには等しく選択の余地があった。それぞれの立場で、それぞれの解答を見出すことができた。その過程は、見るも見ないも、行くも行かぬも、自由性ゆえの辛さもあったことだろう。断腸の想いで悔し涙を飲んだ方も多くおられた。それも知っている。だが逆に、そこにはたくさんの歓びも同時にあったはずだ。オンラインとリアル、双方ともに。そしてそれはバンドとの、仲間との、つまりは「好きとの再会(=再生)」でもあったように感じられる。
それは最後の手繋ぎの部分でも色濃く感じ取れた。終盤、これまでの演技(=日々)がフラッシュバックした後に砂浜を駆ける川床明日香の映像が差し込まれる。あれはまさしく我々の希求して止まない姿である。現在も続く禍が過ぎ去り、いつの日か完全に解放され、ああなりたいという願望。それがなんとか耐え忍んでいる今の心に迫り来ることで、この項の始めに書いたカタルシスを迎える。音楽はいつだってここにあるよと、手を伸ばしてくれればいつでもその手を取るよと、だから手を繋いで一緒に進もうよと、そう言ってくれているような、そんな気概を感じてならない。「繋ぐ、または繋ぎ直す(=再生する)」こと、これはサカナクションとリスナーだけに止まらず、音楽そのものと我々含むミュージックフリークの関係のようにも思えてしまうのだ。
従来の固定観念で縛られていた諸々を破壊し、そこから解き放たれることでこれまでの価値観に変化が生じる。今後、黎明期を迎えると言われる業界(世界)の中において、その新規性に適応していくこと、それこそが再生していく一歩なのではないだろうかと筆者は考える。そしてその歩みを進めて行く中で何を生み出すのか、どのように応用していくのかが注目されるところだ。
この項では『目が明く藍色』についてというよりも、ライブ全体での同曲の位置付けやそこから感じた意味合いについて長々と綴ってきてしまったが、「変わらずに変わり続ける」とはよく言ったもので、サカナクションはいつだって挑戦し開拓を続けていっているように思えるのだが、その方法が回によって変わるだけで本質や伝えたいことというのは昔から何も変わっていないように感じる。大義があるからこそ軸がブレない。ゆえに信頼ができ、今もこうして綴りたくなってしまう。音楽って本当に素晴らしいと感じ入るばかりだ。
"君の声を聴かせてよずっと ずっと"