掃除祭__3_

「判断しない」その優しさを持つために

例えば

駅で歩いていて、前から来た女性がわたしにぶつかったが、何の一言もなく、足早に通り過ぎていったとき。

全く良い気持ちにならないし、どちらかと言うと苛立ちを覚えると思う。

でも、その女性側の真実が、お母さんが緊急入院したと告げられて動揺し、その病院に向かっている途中の出来事だとしたら。

知らなかったときよりも、許せる心が持てる。

もしかしたら、謝るよりも早く向かいなよ!とすら思うかもしれない。


優しさの形の1つとして、少しの想像力があると思う。

前述の例の場合のように、多くはその背景を知ることはできない。

しかし、重要なのは真実は何なのかではなく、どういう人間で在りたいか。

わたしは、少しの想像力を馳せられる人間で在りたい。


だが、その想像力が遥か彼方に忘れ去られるときがある。

それは、自分に余裕がなく、感情によって心が乱れているときだ。


わたしは瞬間湯沸かし器のように感情が触れることが多く発生する。

そのときは、心がきゅっと狭くなることを感じている。

この瞬間に一番やってはいけないことは

「心が狭くなってる、これじゃダメだ」と否定すること。

否定形を受け入れらない脳は、心が狭くなっていることだけにフォーカスしてしまい、より視野が狭まっていく。

じゃあどうしたらいいか

という、普通に考えたらこの文章の中では本題でコアな部分だろうけど、生憎答えは見つかっていない。

巷で言われている、手放せばいいとか、メタ認知するとか、受け流すとか、色々と試したけれど、まだしっくりくるものに出会えていない。

でも、世の中そんなもんだと思うのだ。

色々なところでHow to本かあり、こうすべきだ!こうしたらいい!という解決策が出回っているけれど

その解決策は事実としてあっても、自分に合っているかどうかはまた別の話。


タイトルの "「判断しない」その優しさを持つために" に対する解答はここにはないけれど、おそらく様々な解決法はネットにうようよ転がっている。

こう在りたい、優しさを持ちたい

そう思った時点で、もうそのドアをノックしていることを信じるし、ここで伝えていきたい。

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