白紙の紙の真ん中に 1本線を引く そうするとその紙に 右側と左側ができる 今度はマルを書いてみる そうするとその紙に 内側と外側ができる 線は自由を消費して そこに役割を与える いや 真実は 人間の脳が そう認識したがることにある ただそこに或るだけの線に 何かの役割を見出そうとするようになったのは いつからだろう それをカッコいいと思うときもあれば なんだか物寂しくなるときもあるのは 何故だろうか 脳も 心も なんと勝手な存在なのだろうか すべては ただそこに或る
荒れ狂う 冬景色 蜻蛉返り 四捨五入 見つめる指先 後ろに居るのは空飛ぶ海豚 老いる人形 縮む宇宙 蟻と朝露 日進月歩 かごめかごめ 此の先待つのは赤い薔薇 重ねたカーテン 雲隠れ 腹が満ちて 諸行無常 やも知れぬ 時が照らすは無音の部屋
クマのおかざきさんがやってきた 一輪の赤いダリアを持っている 「こんにちは」 「こんにちは」 「どこから来たの?」 「うーん、どこからだったかなぁ」 おかざきさんは ちょっと困ってる 「どうしてここに来たの?」 「こっちかなぁ、と思ったんだ」 おかざきさんは ちょっと嬉しそう 「この花はどうしたの?」 「おととい、友達になったんだ」 おかざきさんは 微笑んだ 「きみは、ダリアと友達になりたい?」 「うん、なりたい」 「じゃあきみとダリアとぼくは、友達だ」 そう言って
煙草のけむりがユラユラと 私の前を通り過ぎる 私の息を纏い 鼓動のリズムを乗せていく 私の頭の近くに来たものは きっと 私の脳波を受け取って そのまま換気扇へ消えていく けむりなのかわからない そのユラユラしたものは 換気扇を出て 空に向かい 次は宇宙へ消えていく どこかのナニカが そのユラユラしたものを見つけて 私の夢にやってくる 見えないものを携える そんな君が愛おしくて 今日も私はプカプカしている
はじめて聞くこと はじめて触ること はじめて見ること はじめて味わうこと それは出逢い それは浪漫 それは未知 それは嫌悪 ときに 太陽の光がキラキラ反射する大海原 ときに 高いビルの間の細い道にできた影 ときに 腐った肉 はじめてを前にすると、心は正直になる はじめて感じること それはわたし やあ、はじめまして
彼岸花を見て、思い出すのは「地獄先生ぬ〜べ〜」(世代ギャップあるんだろうな・・・) 彼岸花を題材にしたストーリーがあった、ということだけ思い出す。 小学生(だったと思う)の私は、なんだか妖しくも美しいストーリーとその花に心が動いたのだ。 大人になってそんなに出会う機会がなかった。彼岸花は縁起の悪い異名が多く、花屋に並ばない。 異名の一部としては、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)・・・ すごい言われようだな。 確かによくよく見ると、
中学生だったか高校生の時に流行ったAqua Timezの歌詞で 「辛いとき〜辛い〜と言〜えたら〜い〜いの〜にな〜あ〜ぁ〜」 って歌があってそれが頭の中でループしていて、その度に「辛いときに辛いってがっつり言えちゃってるなぁ」なんて思ったりしている。 ということで、ただいま。 今年はしんどいことが続く年だな。でも、鍛えてもらっている。 やっと冷静になってきて、たくさんのものにさよならをしている。ひとつひとつをゆっくり噛み砕いて別れを告げている。 噛み砕くときに、自分
猫は「自分が心地いい場所」を見つける天才だよね 今日はそんな話が出て、「ああ、そうだなぁ」と納得した。 と同時に、「それ、なんだかわたしは下手なような気がするなぁ」と思ったのだ。 わたしは「モノ・コト」よりも「人」を重視するタイプ。何をするかより、誰とするか、が判断軸になっている。 そして判断した後も、「人」が中心になる。それほどまでに、人が好きということなんだけれど。 でも、全部を「人」中心に考えていると、しんどくなる時もある。 だって、「人」は変わるのだ。移り
いざnoteを開いてみたけど、今日何について書こうか全く思いつかない。 「書きたいものがない日」って、どんな一日だっただろうか。 昨日から沖縄入りしている。 沖縄の強い日差しを受けて起床。少し汗ばむくらいの暑さ。 Twitterをいじってから、起き上がって、少し瞑想。 汗を流しにお風呂へ。 そのあと、大好きなエチオピア豆のインスタントコーヒーと、チョコレートをいただきながら、調べものと本を読む。 お気に入りのイヤーカフを耳につける。少し耳に心地よい違和感を得る。
今日はKIXから沖縄にフライト。そのフライト中の出来事だ。 私は3列席の窓側に座っていて、後ろには4人家族。 2人とも男の子で、1人は小学生、もう1人は年少さんくらい。 私の後ろには、お兄ちゃんが座っていて、真ん中にはお母さん、通路側には弟を抱きかかえたお父さんが座っていた。 離陸前。 お兄ちゃんが折りたたみ机をバッタンバッタンして遊んでいる。 最初は気にならなかったけれど、だんだんと机を戻す時の勢いがついてきた。 その机は私の座席についているものだから、私の背
普段生活をしていて、内臓が自分の身体の中にあること、それらが活動していることをなんて考えやしないけれど お腹が痛いとき、その存在を意識する。 こってりしたものを食べても、酒を飲んでも、排気ガスが充満している道を通っても、虫に刺されても 身体は文句も言わず、血液を循環させてそれぞれの役割を全うし、身体を正常に保つためにベストを尽くしている。 でも、そんなことも、普段意識していない。 「痛み」が伴って、初めてそれらに思いを馳せたり認知したりするって、ある意味皮肉だなぁと
例えば 駅で歩いていて、前から来た女性がわたしにぶつかったが、何の一言もなく、足早に通り過ぎていったとき。 全く良い気持ちにならないし、どちらかと言うと苛立ちを覚えると思う。 でも、その女性側の真実が、お母さんが緊急入院したと告げられて動揺し、その病院に向かっている途中の出来事だとしたら。 知らなかったときよりも、許せる心が持てる。 もしかしたら、謝るよりも早く向かいなよ!とすら思うかもしれない。 優しさの形の1つとして、少しの想像力があると思う。 前述の例の場
多方面で、いろいろな人に、かなり甘えさせてもらっている。 長女気質のわたしは、本当に甘えることが苦手で、助けてもらっても 「迷惑をかけて申し訳ない」 「負担をかけて申し訳ない」 いつもそうやって思ってきた。 今はどうしようもなく困っていたりすることがあって 正直に困っているって伝えて、勇気を持って助けてほしいと言葉にしてみて そしたら、ほとんどの返答が「いいよ」だった。 まぁその、共感性の強いわたしは「いいよ」のグラデーションも 受け取っていて、そこにはポジ
「悪気はない」って言って、それを本気で思っていて 人を滅多刺しにして殺したら ほぼ大多数の人が「悪気がないからってやっていいことと悪いことがあるだろう」になるけれど 「悪気はない」って言って、それを本気で思っていて 本人の"正しさ"を相手に浴びせていたら それは「価値観の違いだからしょうがないね」になる どちらかというと「いじめ」への考え方も後者に分類されていると感じていて それに加えて、落ち度を認めたくない・教育方法を否定されたくない自己防衛に走る外部があるか
昨日は、これ以上ない「晴れ」だった。 気分はずっと落ち着かなくて、天気とマッチしない。 8:00から庭の畑にニンジン・玉ねぎ・ネギを植える。 10:00過ぎに食材と追加の種の買い出しへ。 11: 00から料理の仕込みと昼食を作る。 12:30からランチと休息。 14:00にお昼寝。 15:00から絵を描く。 17:00からカブの種まきと庭の草刈り。 18:00から夕食づくり。 19:00に温泉へ。 21:00に戻り、諸々の準備。そして脱出。 こんなに充
最近ご縁があったので、彼へ思いを馳せている。 天涯孤独だった、川端康成。 幼少期に両親を亡くし、祖父母に育てられ、祖父母も若き時に亡くなり、唯一の血が繋がった姉も、若き時に別れを迎える。 名だたる作家は、自害していることが多い。 芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫・・・ 川端康成も、その一人だ。 しかし、ノーベル賞受賞スピーチでは、こう述べている。 いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い また、親友・横光への