自ら死ぬことと、価値観
最近ご縁があったので、彼へ思いを馳せている。
天涯孤独だった、川端康成。
幼少期に両親を亡くし、祖父母に育てられ、祖父母も若き時に亡くなり、唯一の血が繋がった姉も、若き時に別れを迎える。
名だたる作家は、自害していることが多い。
芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫・・・
川端康成も、その一人だ。
しかし、ノーベル賞受賞スピーチでは、こう述べている。
いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い
また、親友・横光への悼辞での決意も。
僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。
愛弟子・三島由紀夫の衝撃的な自害を目の当たりにして、正気ではいられなかったとは思う。
他にも、様々な憶測が飛び交っているが
「自殺者は大聖の域に遠い」と断言していた価値観を破り捨てるほどの衝撃を抱え過ごす日々は
想像しただけで息が細くなり胸の内に暗い渦巻きが蔓延る苦しさを覚える。
自殺を悪いことだとは、私は断言できない。
それは、私の曽祖父が自殺をしているからだ。
しかし、推奨している訳ではないことを、念の為記載する。
この世は諸行無常で、移り変わっていくことは真実だ。
今の苦しみも、哀しみも、永遠には続かない。
しかし、今感じている苦しみや哀しみが耐え難いことも真実である。
闘って、闘って、闘い続けたことは、紛れもない事実だ。
きっと私の曽祖父も、目に見えない何かと闘い続けていたのだろう。
一方で。
最近シェアをした、RADWIMPSの野田さんの言葉にあったものは、私の中で感じていたことをまさに言語化してくれていたものだった。
こんな狂った世界で当たり前の顔をして、疑問も持たず生きられる奴らの方がよっぽどどうかしている。あいつらの方がよっぽどおかしい。君がいなくなって、そんな奴らばっかりの世界になるのなんて、僕は嫌だ。
見えない何かと闘って、とても苦しいと思う。
けれど、「見えない何か」すら見えない人が溢れているこの世界で。
見えない何かを感じているキミと、話をしたかったとは思う。
川端康成も、私の曽祖父も、
きっとその時代に、あなたと話をしたかった人がいたことでしょう。
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生きていると、様々なことがある。
今ある価値観が、大きく覆ることもあるかもしれない。
今ある価値観が、数年後も同じだとは限らない。
言ってしまえば、価値観なんて、そんなものなのだ。
そう思うと、価値観やアイデンティティとは、何なのだろう。
今大事にしていることは、本当に大事なことなのだろうか。
いや、もはや、大事にすべきことなんて、存在するのだろうか。
消えゆく意識の中、最期に川端康成は何を思ったのだろう。
あの世で逢えたら、聞いてみたい。