To be or not to be, that is the question――このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ――宮城聰さん演出の『ハムレット』(2021年『報徳』6月号 巻頭言)

静岡舞台芸術センター・SPAC

宮城聰さんが芸術総監督を務める静岡舞台芸術センター・SPACは、魅力的な舞台作品の提供と共に、国際演劇祭や高校生の演劇アカデミーを開くなど、多彩な活動を展開している。

「ふじのくに野外芸術フェスタ」もその一つで、最近も報徳社大講堂前の広場で、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を翻案した『おおっと ええっと ええじゃないか』を演ずるなど、市民との直接交流のユニークな実践も繰り広げている。

そんな縁で静岡まで観劇に行くようになった。駿府城公園で観た『アンティゴネ』は、国家の法と個人倫理の相克を日本人の死生観で捉え直した独創的な演出で、世界最高峰の演劇祭典「アヴィ二ョン演劇祭」に招聘されて激賞され、ニューヨークでも高い評価を受けた。

今年に入って、久しぶりに『ハムレット』を観たのだが、宮城さんの演出は簡素鮮烈な舞台で、今日的な問題を鋭角的に炙り出していた。 

『ハムレット』

『ハムレット』は、『マクベス』『リア王』『オセロ』と並んでシェイクスピアの四大悲劇といわれる。デンマーク王が死去し、王の弟クローディアスが王妃ガートルートと結婚して王となる。父の急死と母の早い再婚に沈む王子のハムレットは、父の亡霊から毒殺だった告げられ、思い悩む。復讐のため、ハムレットは狂気を装う。

宰相ポローニアスの娘オフィーリアは恋人なのだだが、ハムレットはオフィーリアに辛く当たる。王の前で旅芸人に劇を演じさせて、王が父を殺したと確信するが、母である王妃との会話を隠れて盗み聞きしていたポローニアスを、ハムレットは王と誤って刺殺してしまう。オフィーリアは、ハムレットから受けた二重の仕打ちに狂って、溺死する。

ポローニアスの息子のレアティーズは、父と妹の仇とハムレットへの憤怒を募らす。王はレアティーズを利用し、毒剣と毒入り酒を用意し、ハムレットを剣術試合に招き、密かに殺そうとする。しかし試合の最中、王妃が毒入りと知らずに酒を飲んで死に、ハムレットとレアティーズは、試合中に毒剣で傷を負う。死にゆくレアティーズから真相を聞かされたハムレットは、王を殺して復讐を果たした後、国の将来を敵国の王子フォーティンプラスに託して死ぬ。

起伏に富んだ展開だが、最後で敵国の王子に国を託すところが何とも荒唐無稽で、異和感がいつも残った。ところが宮城さんの演出は、その謎を解いている。

敗北を抱きしめて

『ハムレット』はシェイクスピア劇の中で一番長く、四時間以上かかるが、一○○分に切り詰めた舞台になっていた。真ん中に方形の白布が敷かれていて、巧みな照明で場面展開がなされ、ハムレットの自問自答の内面世界が浮かび上がる。近代的自我がともすれば陥りがちな悪無限の意識の葛藤を象徴しているかのようだ。そして最後は敵国の王子フォーティングラスに代わって、何とマッカーサーが登場した。

こういうことだったのかと初めて分かった気がした。一六〇一年にハムレットが言ったことが、一九四五年の日本でも起きたのだ。自滅した国はすべてを受け入れざるをえない。外からの力に拠らない限り、自力で更生はできなかったのだ。

この場面を宮城さんは、戦後の日本人を描いたジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(Embracing Defeat)から触発されたという。エンブレイスは、抱きしめる、進んで受け入れるという意味で、『ハムレット』では、フォーテインブラスが「with sorrow I embrace my fortune(悲しみに沈みながらも幸運を抱きしめる)」と語っており、ダワーはこれを踏まえて、逆ベクトルのタイトルをつけたのだろうと宮城さんは推測する。アメリカを進んで受け入れながら、逞しく力をつけていく日本を、ダワーは魅力的な筆致で描いている。

はぐれてしまった青年

宮城さんの『ハムレット』は、復讐劇でなく、父親が突然死んで、「世界とはぐれてしまった」青年としてハムレットを描く。「たしかに人間はある時期まで〈自分はなにものなのか?〉という疑問を持たずに生きています。ハムレットの場合は、〈本当の父〉が生きているあいだはそうでした」。しかしその糸がちぎれてしまうと「自分を取り巻くすべてが不安定になり、母親さえも疑わしくなってくる。これはひとりの人間の成長の話であると同時に、人類そのものの歴史をも表していると思います」(上演パンフより)。

本当の父を失った日本は、代理の父の下で、成長発展した。しかし現在、その在り方が不確かなものになりつつある。原爆を落とされながら唯々諾々と従うその枠組も問われよう。不確かになった自己を立て直し、世界とどのような関係を新たに構築していくことができるか。新たに選択、決断、構築が求められている中で、自己の世界に閉じこもりがちになっている今の私たちへの、根源的な問いがここにあるのではないか。

To be or not to be

この言葉は、引き裂かれて考え過ぎて遅疑逡巡し、行動に移れない近代人を象徴する言葉として有名だが、在り方、存在を表すbeをめぐって、様々な日本語に訳されてきた。

日本での最初の訳は、明治七年にイギリスの通信員チャールス・ワークマンで、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」だという。「あれは何ですか」には吹き出してしまうが、そこにかえって独特のリアリティーも感ずる。

本格的に日本でシェイクスピアを紹介して全集を出したのは、坪内逍遥である。その訳は、「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」となっている。

以下、著名な訳を掲げるならば、「生か、死か、それが疑問だ」(福田恒存訳)、「やる、やらぬ、それが問題だ」(小津次郎訳)、「生き続ける、生き続けない、それが難しいところだ」(木下順二訳)と、テキストの読み取り方によって様々である。

宮城さんは、小田島雄志訳の「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」を採っている。このセリフの後を読むと、「どちらが立派な生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶことか、それとも寄せ来る怒涛の苦難に敢然と立ち向かい、闘ってそれに終止符をうつことか」となっているから、to beは現状の確認であり、not to beは未来への探りだから、胸に落ちる訳である。

存在を問う

『ハムレット』は、選択と決断も含めて、人間の在り方そのものを問う劇なのだ。マッカーサーの登場は、このままでいいのか、いけないのかの問いを、歴史的位相にまで広げた。明治維新から敗戦のまで七七年、そしてマッカーサー開国から今日まで七六年、戦後日本は、アメリカから決定的な恩恵を受けてここまできた。同時に軍事同盟によって従属的位置に置かれ続けた。正・反・合の弁証法でいうなら、次の七〇年の合の在り方が現在問われているといえる。

「『ハムレット』は、解答ではなく、疑問を表現している芝居」だと宮城さんは言う。その格好の例は、東ドイツのハイナー・ミュラーが一九七七年に出した、七ページの極小テキスト『ハムレット・マシーン』である。冒頭が衝撃的だった。「私はハムレットだった」と近代人のシンボルであるハムレットを過去の人にしたのである。こうして近代を徹底して俎上に載せ、現代を生きる意味を探ろうとした。

現在、コロナ後の生き方が探られている。このままでいいのか、いけないのか、日々の生活から経済や社会の根本的在り方まで、to be or not to beの問いが私たちの意識の中心になりつつある。

新しい質

先日の掛川報徳経済人の研究会では、『二宮翁夜話』の「心田の開発」と、塚越寛さんの『末広がりのいい会社をつくる』の[「how to do」の前に「how to be」]が研究課題になっていた。

尊徳は幕府から日光神領の荒地起こしを命ぜられたが、祝いに来た弟子たちに「それは私の本願にたがう」と語る。「わが道は人々の心の荒蕪を拓くことにある」。なぜなら「一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうと心配することはないからだ」。「心田」さえ拓けば、新田はおのずと開かれていく。在ることの充実は、自ずと成ることへの実践を呼び起こすのだ。

愛称「かんてんぱぱ」の塚越さんも、会社経営のハウツー本は無数にあり「how to do」は必要だが、「how to be」がないと、目先のことはうまくいっても長期的にブレが生ずることを強調する。人間としての存在も、会社としての社会存在も、ともに在り方beの質と水準が決定的なのだ。

報徳社には「経済門」と「道徳門」がアーチになっている。渋沢栄一の主著は『論語と算盤』である。アーチで繋がれるその在り方が問題となる。そこには原点として、ハムレットの煩悶to be or not to beがある。 

問題の提起、在り方への問い、日常の実践、新しい質の形成…ポストコロナの世界は、政治、経済、文化、国際関係のあらゆる局面で、根源的検討と新しい質の追求が求められている。

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