夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る(『報徳』2023年11月号巻頭言より)

夕焼け小焼け

 童謡がひときわ心にしみて感じられるのは、年齢的にわらしがえりの時を迎えつつあるからなのだろうか。秋の夕焼けの美しさに見とれていると「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る・・・」が自然に浮かんでくる。
 夕闇が迫り、遊び疲れて、山並みの方を見ると、夕焼け空の下、鳥たちがねぐらを求めて飛んでいく。「お手々つないで、皆帰ろ、烏と一緒に帰りましょう」は、子どもの頃の原風景である。
 「子供が帰った 後からは 円い大きな お月さま 小鳥が夢を 見る頃は 空にはキラキラ 金の星」と続くが、子供たちの満ち足りた遊びの後に、大きな月さま、煌めく星々という天の運行に連なって、宇宙まで広がった抒情と叙景の融合が素晴らしい。生きていることの根源に触れる豊かさがここには息づいている。

中村雨紅の願い

 この歌が出来たのは、今から丁度百年前、一九二三年・大正十二年である。作詞したのは中村雨紅、二十六歳の時である。
 東京学芸大学の前身校であった青山師範を卒業し、東京日暮里の小学校の先生をしていた。子どもたちに豊かな情操をと願った先生方が集まって詩作、作詞の活動を始め、そこから生まれた作品だという。
 詩の雑誌に投稿して評価されるようになり、やがて『夕焼け小焼け』は、中村雨紅の作詞、草川信作曲で、『文化楽譜――新しい童謡その一』として発刊されることになる。ところが刊行の用意が整ったところに関東大震災が襲い、版型はすべて灰になってしまった。かろうじて十三部の楽曲が残った。震災後、それが人から人へ歌い継がれて広がっていったという。


当時の子どもたち

 米騒動、第一次世界大戦後の不況と、当時、人々の生活は苦しかった。下町の子どもたちは貧乏のどん底にあえいで、いつもおなかをすかせていた。「近所の火葬場にオモライに行くために、児童の大半が授業中にいなくなる」「前の店先から牛肉や葱を盗んで、生のまま校庭の片隅でぱくつく」といったのが日常であったという。
 せめて子どもたちの心は豊かに育てたい。やむに已まれぬ気持から、雨紅は同僚たちと情操教育のために「童謡童話運動」を始めたのである。
 丁度その頃、児童文芸誌が創刊され始めていた。鈴木三重吉の『赤い鳥』が一九一八年・大正七年、野口雨情らの『金の船』が翌年に創刊されている。大正デモクラシーの息吹きの中で、雨紅たちは心の解放をめざして詩作に励んだ。『夕焼け小焼け』は、こうした新しい時代の流れと呼応しつつ、時代の貧困に抗した活動から生まれたのである。

八王子の恩多村

 中村雨紅は八王子の恩多村の出身である。宮尾神社の宮司の家に、一八九七年・明治三十年に生まれている。本名は高井宮吉、中村家に養子に入り、野口雨情に私淑して一字をもらい、中村雨紅としたという。
 『夕焼け小焼け』の成立事情を、雨紅は次のように語っている。「東京から故郷への往復に八王子から実家まで凡四里をいつも徒歩でしたので、途中で日が暮れたものです。それに幼い頃から山国での、ああいう光景が心に沁み込んでいたのが、たまたまこの往復のある時に、郷愁などの感傷も加わって、直接の原因になって作詞されたのではないかとおもっています」
 「夕焼け小焼け」の「小焼け」とはどんなだろう。「仲良しこよし」のように語調とリズムを整える言葉ともいえるし、夕焼けの前後の微妙な色合いの情景ともいえる。三木露風にも「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か」とある。

天・地・人の真実に触れる

 「お寺の鐘」の音がぼーんと聞こえて来る情景を思い浮かべていると、「山寺の鐘つく僧は見えねども 四方の里人ときを知りなん」という尊徳の道歌が浮かんでくる。
 抒情に徹しているというより、道歌というだけあって、どこかに「教え」の匂いが漂っている。人と人との結び暗示され、人の徳というのは、このように陰徳として現れるのが本来の姿、と暗示しているようにも感ずる。
 尊徳の歌は、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」、「春は花 秋は紅葉と夢うつつ 寝ても醒めても有明の月」と抒情に徹した歌もあるが、どちらかというと「山々の 露あつまりし谷川の 流れ尽きせぬ 音ぞ楽しき」「夕立と かたちをかえて山里を 恵む情けの はげしかりける」など、どこか農民の生活に益することへのそこはかとない思いがひそんでいるようにみえる。
 「天・地・人の経文」を読み解く仕方は、さまざまである。雨紅のように夢と抒情で読み解く。尊徳のように道を求めて読み解く。読み解き方で、私たちの魂への触れ方にもさまざまな位相をつくる。現実の摂取の仕方の相違が、わたしたちの心田に拓く豊かさを与えてくれる。

強い社会性

 ところが太平洋戦争の末期になると、物資不足で、お寺の鐘まで供出させられる事態になった。この辛い現実から替え歌が生まれた。「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘ならない 戦争なかなか終わらない 烏もお家に帰れない」と歌詞を変えて密かに歌われたという。
 子供たちの貧困へのアンチテーゼとして創作された『夕焼け小焼け』は、二十年後、今度は悲惨な戦争に抗する歌に変身させられたのである。「夕焼け小焼け」からは想像できない、驚くほど強い社会性を帯びた歌であったことに気づく。

世界との一体化

 歌が心に響き、魂を満たしていくのは、世界と一体化した豊かさを心身で享受しているからであろう。自己認識、世界認識というが、私たちは日々、自分を中心に生きている。無意識に自分を規制し、世界を自分のコントロールの下に置こうとして働く。
 そうした営為に疲れ、心がぼんやりして意味ややる気を失い、どうでもいい気持ちになったとき、自分の輪郭を越えて世界と一体になる体験は、大きな安らぎを生もう。それは私たちが本然に帰ることであり、それが新しい力の源となる。それが童謡であり、歌ではないだろうか。
 魂にふれたとき、歌は心を整える大きな力になっていく。童謡とは、魂の気配を察し、内に秘められた魂の願いを実現していくものなのかもしれない。

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