尊徳のいう「天地の経文を読み解く」力柳澤伯夫著『平成金融危機――初代金融再生委員長の回顧――』を読む(2021年『報徳』8月号 巻頭言)
経済とは
コロナ禍でなお更に経済の行方が不透明である。二宮尊徳の道徳と経済、渋沢栄一の論語と算盤なども、経済活動の根本を押さえる考え方を示していると思うが、現代の具体的な問題となると、何とも複雑で判らないことばかりである。丁度そこに柳澤伯夫さんから『平成金融危機』が送られてきた。これだと、飛びついて拝読した。
バブル経済の崩壊の後に顕在化した金融危機は、一歩を誤れば、金融システムの崩壊、そして恐慌になる大きな可能性をはらんでいたのだ。その危機的状況に対する全面的な施策が詳細かつ臨場感豊かに論じられている。
事情に疎い私などは、長銀や住専の処理に公的資金が投入される報道を聞いて、大きな所はいい気なものだ、経営ミスを国民の税金で補えるのだから、くらいに思っていたが、事態は、全面対応を怠ると、国全体が危機に陥る重大局面になっていたらしいのである。
バブル経済への道程
少しでも経済の実態を解りたい。本書に沿ってまずは歴史的経緯を辿ってみた。柳澤さんは一九六一年に大蔵省に入省している。思えば安保闘争の翌年で、岸内閣から池田内閣になって政治の時代から民生重視に変わり、「所得倍増」がすすめられた時期であった。経済成長の十年が始まり、国民の生活はみるみる向上していった。大蔵省も最も輝いていた時代である。
しかし一九七〇年代に入り、七四年、七九年と、二度に渡るオイルショックに見舞われる。石油価格が四倍近く値上り、「狂乱物価」、「成長ゼロ」がいわれた。インフレのために預金の伸びは失われ、経済成長の鈍化によって資金貸出需要は減退する。こうして日本の経済は、国際収支の悪化・景気後退・インフレの三重苦に見舞われることになる。
オイルショックにより、石油依存体質の改善が必死で図られた。ソ連の石油に依存してこの科学技術革命と情報革命に乗り遅れたことが社会主義諸国の崩壊につながったとも言われるが、日本はオイルショックを機に、技術革新によって大きく産業構造を変革したのである。
こうして回復した経済力が土地の価格に連動したということであろうか。土地の取得、値上がり、買占めの連鎖が生じ、土地の評価額が一九八一年に八〇〇兆円だったのが、一九九一年には二四〇〇兆円になったという。
「プラザ合意」による金融緩和
地価高騰は、株価の高騰を呼んだ。そして更にこの流れを決定的にしたのが、一九八五年の「プラザ合意」だった。アメリカは、先進五カ国財務相会議で日本の対米輸出の突出をおさえるため、内需振興を日本に要請し、そのために金融緩和を求めたのである。
日本銀行の公定歩合は五%から二・五%に引き下げられ、資金が潤沢になった金融機関は、事業意欲、投資意欲のある人を見つけては、望む資金の貸し付けを積極的に行った。
しかし円高ドル安になって輸出は振るわなくなり、製造業が不振になって産業資金の需要が大きく減退する。資金潤沢な金融機関は、非産業資金の不動産、株式、ゴルフ会員権などに向かう。こうしてバブルが膨らんでゆく。
バブル崩壊から金融危機へ
一九九〇年、大蔵省は総量規制・三業種(不動産・建設・ノンバンク)規制を出した。これが引き金になって全国の地価は反転降下し、バブル崩壊が始まった。
一九九二年頃から東京協和信用組合、コスモ信用組合、住宅金融専門会社などの経営破綻が始まる。この動きは一九九六年に再燃し、三洋証券の会社更生法適用、山一証券の廃業、北海道拓殖銀行の破綻と続いていく。
金融機関の不良債権→倒産の危機→取り付け騒ぎ→金融麻痺→恐慌の危険が迫っていた。
日本発の恐慌を阻止せよ
柳澤さんは大平内閣のとき大蔵省から派遣されて田中六助官房長官の秘書官を務めた。それが縁で政界に移り、一九八一年に衆議院議員に当選する。そして一九九八年、小渕内閣で金融再生担当大臣として入閣した。
就任の記者会見は、日本長期信用銀行の特別公的管理の発表と重なるほど、事態は急を告げていた。破綻処理と資本増強のための法案づくり、破綻金融機関の資産査定、損失補填、資産買い取り、資本注入など、激動の日々が始まる。経済は最悪で、金融機関は不良債権の増加を恐れて企業へ貸し渋り、それが更なる経済不振、不良債権増加の悪循環を生んでいた。
こうした事態に対応する政府、日銀、大蔵省、金融庁、国会を巻き込んだダイナミックな対応が詳述されている。具体的かつ本質的な叙述は、さながら金融危機対応の奥義書になっている。柳澤さんは欧米の金融人と交友が深い。サマーズ、ガイトナー、ケラー、ワーズワース、リードといった財務長官も務めたような人たちからの知恵も吸収し、破綻処理というミクロの問題を解決しつつ、日本の金融システムの安定的構築について研究し、提案している。恐慌は回避された。
その後、小泉内閣でも入閣するが、この時の不良債権はバブル崩壊の結果ではなく、デフレ経済の結果で、性格が違うから別の対応が必要、「公的資金の再投入は、銀行貸出を盛んにして経済全体を活性化させることに役立たない」と考えた柳沢さんは、政府、日銀、メディアに受け入れられずに、辞任となった。
「秋天の 現れずして 帰庵する」と無念を句に託している。その後の小泉・竹中改革は何を生みだしたのだろうか。
現実を見透す、確かな眼差し
本書を読み解きながら、柳澤さんの現実を見る眼差しの確かさに、こちらの精神も溌剌としてくるのを覚えた。一〇年ほど前に『軌跡 Archives』という論集を出された。税制、金融、農政、行政改革といった多彩な分野の論を編まれたもので、金融関係では「NHKクローズアップ現代」での国谷裕子さんのインタビューもあって判り易い。関連講演などを本書に収録されれば、もっと素人にもわかりやすくなったのではないか。
「どんなことでも実相観入に論じられるのですね」とお訊ねすると、「貧乏だったから」と答えられた。小学校以来ずっと新聞配達をされた。貧乏だと取捨選択の余地はない。与えられた状況に全力を尽くさないと生きていけない。新聞配達がなかったら勉学は続けられなかったから仕事に対する差別意識も生まれない。どんな現実も受け容れ、知的感受性が強い分、それをしっかり見極める姿勢が養われたのだ、と思い至った。
六〇年安保の始まる時代、高校、大学とエンゲルスやマルクスの魅力にはまったことも大きいかも知れない。人間の主観がどれだけ深く客観の世界に参入できるのか。資本主義社会を分析し尽くさんとする二人のブリリアントな眼差しから多くを学んだに違いない。尊徳の「天地の経文を読み解く」力をつけたのである。
本書は、小学校時代の恩師島崎くに先生に捧げられている。先生は言われた「伯夫はまた金貸しなんかの大臣になって」――恩師に、そして私たちに、柳澤さんは大いなる自負でもって応えられた。
ペイオフ解禁をめぐる議論で柳澤さんは、資産を土地や貯蓄で所有するのでなく、企業を励まし永続化させる投資に使うことこそ本道だと語っている。勤労によって得た貴重な資産を企業を育て発展させるために使う、自分を生かし公を生かす、それが報徳でいう「推譲」ではないか、と。
本書には、私たちが実体経済と共に歩みを進め、自立した市民へと成っていく、熱い呼びかけが流れている。