全国まちづくり交流会 in 馬路村(『報徳』7月号巻頭言より)
出会いのベクトル
六月三日、四日、五日、ゆずの里で知られる高知県馬路村で「全国まちづくり交流会」が開催された。遠州森町の村松達雄さんに教えられて、初めて参加した。
村松さんは、役場に勤めつつ様々な地域活動をされ、同町出身の製糖王で報徳の実践家でもあった鈴木藤三郎の研究もされている。村松さんは行けないが、彼の友人でかつて報徳社に訊ねて来られたことのある北海道佐呂間町の船木耕二さん、熊本県玉名市の吉田富明さんが交流会に参加されるという。
馬路村には、昨年の本社主催の「報徳実践オンライン研修会」で、馬路村農協のゆず産業について報告して下さった木下彰二さんがおられる。
そんなこんなの出会いのベクトルが動機となって、磐田市で元気里山「ねこの手クラブ」の活動をしている鈴木正士さん、久米真弓さんと一緒に、勇躍、馬路村に向うことになった。
地域を生き生きと
「全国まちづくり交流会」は、今年で十八回を数える、前回は、日本で一番美しい村づくりをしているといわれながら原発被害で避難を強いられた福島県の飯舘村だった。コロナ禍で三年振りの開催である。集会参加者にはコロナ検査証が義務つけられた。
この「交流会」の始まりは、二〇〇三年に愛知県足助町の観光協会「AT21倶楽部」の設立十周年記念式典だという。そこに集まり親交を重ねた足助町の佐久間章郎さん、北海道佐呂間町の船木耕二さん、阿波勝浦の国清一治さん、与論島の山本明美さんの四人が、全国ネットの活動の必要を強く感じ、足助のこの記念祭を第一回として「全国まちづくり交流会」を始めたのである。第二回は与論島、第三回は阿波勝浦、第四回は北海道オホーツクの地で開催された。
そして二〇〇七年、第五回が馬路村で開催された。今回は十五年ぶりの再度の開催である。その間、三重県の伊勢市二見、長野県の木曽町、静岡県の森町、熊本県の玉名市などで開催され、個人、団体の自由参加で、活動報告、実践事例の共有を通じて、地域づくりの発想や方向に大きな刺激と励ましを与えて来た。
ごっくん馬路村
馬路村は、土佐湾に注ぐ安田川を二十キロほど遡った山間にあった。村長の山崎出さんは、「現在の村の人口は八三二人。ここしばらくこの人数は動いていない」、ゆず工場には外からも働きに来て、「昼間の人口が高知県で増える町は、高知市と馬路村だけ」と語られた。「人口減でも人材増で」をモットーに、人の学び・町の施策・仕事の発展の良き結びつきと循環を心掛けているという。
馬路村農協の組合長を長く務められた東谷望史さんは、馬路村のゆずの神様のような方である。この地域は、日本三大杉美林の一つ「魚梁瀬(やなせ)杉」の産地で、かつては人口三五〇〇人、森林鉄道も二五〇キロに及んでいたが、戦後、林業が衰退してしまった。かわって昭和三十八年頃から実生ゆずが着目されはじめた。しかし産業として軌道に乗らなかった。
東谷さんは小さい頃から、三度の飯よりゆずが好きな少年だった。このゆずを何とか生かしたい。農協に入り、実生ゆずの出荷を加工販売へと転換。製品開発、通販の活用、「ごっくん馬路村」のキャッチフレーズの創造など、試行錯誤の波乱万丈ドラマを重ね、「売るとは感動を届けること」に徹した活動で、現在は年商五十億円になったという。
木下彰二さんとは再会を喜び合った。愛媛報徳社の若松進一さんや清水和繁さんたちと掛川にこられたことがあった。愛媛の出身と思っていたら馬路村生まれで、若松さんが第五回の「まちづくり交流会」で『沈む夕日でまちづくり』の記念講演をされ、それに感銘を受けて若松グループに入ったという。
「一日三通手紙を書くと幸せになれます」という若松語録を木下さんから教えてもらったことがあるが、掛川では、集まった皆さんを手品で魅了した。馬路村奇術団「うまじっくクラブ」をつくり、ゆずの販売地、福祉施設、お祭りなどで披露し、馬路村を底上げしている。
地域活動の情報誌『かがり火』
講演が二つあった。ひとつは四月に『かがり火』が二〇〇号て終刊になり、その発行、編集に一貫して関わった菅原歓一さんの話である。日本の経済成長と共に、農山漁村の衰退が始まった。しかも、こうした地域を、遅れた、封建的で、自由のない地域とみなす風潮のなかで、『かがり火』は、各地の光った活動を精力的に発掘し、紹介した。
「輝いている地域には中央の政策や学者の提言に飛びつかない誇り高い実践者が必ずいます」と菅原さんは言う。地域の歴史や文化を守り、産業を育ててきたのは、こういう人たちである。三十四年間にわたって菅原さんは、その姿を生き生きと発信された。地域を元気づけ、発想を触発し、活動紹介が新しい活動を生み、地域発展の発動機の役割を果たされたのである。
最終号を手に取ると、何と、中遠報徳社の今村純子さんが「生活改良普及員として農家とともに歩いた日々」の体験を書かれているではないか。食生活改善の経験から生まれた静岡県の『百年ごはん』も紹介されている。
古い号を見ると二〇〇七年の一一七号には、梅橋報徳社の岡本伸子さんも「全国初、一社一村しずおか運動」について報告している。県の職員として、村の活動を企業と結合させる新しい在り方を実現した、実績の紹介である。
編集人には、途中から哲学者の内山節さんがなっている。内山さんは本社前社長の榛村純一さんと親しく、掛川では菖蒲で知られている加茂元照さんの加茂荘でよく哲学塾を開かれた。このように『かがり火』は、しっかりした哲学的バックボーンを持った地域興しの情報・理論紙として、大きな役割を果たしたのである。
愛媛新聞の記者から限界集落・畑山の農家に嫁いで
もう一つの講演は小松圭子さんで、生まれ育ったのは、イワシがよく取れ、養殖いかだが並び、背後は天に至る段々畑のある宇和島市水荷浦の遊子。きらめく海の漁村集落の生活こそ本当の生き方があると、帰郷したかったが、漁業の不振で戻れない。大学時代は故郷に帰る道を見出そうと、全国の農山漁村を訪ね回ったという。
卒業して新聞記者として愛媛までは戻ったが、そこから新たに決意して、高知県安芸市の限界集落・畑山で鶏肉・鶏卵の土佐ジローを飼育経営している農家に嫁いだ。その奮闘のお話だった。
八〇〇年以上も続き、七〇〇人いた村が、結婚した一〇年前には四〇人になり、現在は更に減っていく。レストランや宿泊所など小松さんの奮闘で、年間何千人も訪れるようになったが、限界集落を活性化したいという使命感と、人口減少の現実のはざまで、気持ちの拠り所となるのは、自分自身が自然と共生し、人々と共に勤勉に働いて生きたいという、強い思いとこだわりだと語られた。
日本人の生き方の原点をおさえたお話だった。歪みが噴出している今の生き方への警告、見直しの提起であり、根本を見つめ、遠きをはかる人間本来の在り方を追求する貴重なお話だった。
旬産旬消・地産地消・互産互消、そして業としての発展
報徳の考え方で漁協を運営して大きな成果を上げているサロマ湖には、かねてから是非伺いたいと思っていた。佐呂間町からは船木さんをはじめ、社会教育に携わっている真如智子さん、桧垣久美子さん、川又聖子さん、室井公裕さん、そして漁業の室井隆治さんが来ておられた。驚いたのは、室井公裕さんは東京農業大学で、本社社長だった神谷慶治先生の学生だったとのこと。先生のカバン持ちでよく掛川にもこられたという。サロマ湖がぐっと近くなった。
恵那市の田口優一さんは「岐阜には報徳社がありましたね」と話しかけて来られた。岐阜の山奥で明治以来活動していた報徳社で八〇歳以上が三人になってしまって解散した話を聞いたことがある。「伝統は生かしたいですね」と話し合った。
捧富雄さんは観光学の研究者で、初回から参加され、観光が地域文化や業をどのように創造するかを研究されているという。鹿児島県出水市で多角的な農園経営をしている竹崎キヨ子さん、志布志市で民宿をしている又木智子さんからは、是非来て下さいと誘われた。鹿児島の八幡正則さんの『怠れば廃る塾』は、今年が二十周年である。秋には集まりが予定されている。是非お訪ねしたいものである。
四季の巡りを何よりの恵みとして地域を発展させる、たくさんの想いに溢れた方たちの集まりだった。当方も、田植え稲刈り酒造りの「花の香楽会」、荒れた山を整備する「花咲き山」、放置茶園を活用して無農薬有機栽培菌根菌の「花の香茶園」などの活動をしているが、皆さんの学ぶ意欲と実践力の高さは、大きな励ましである。
人間本来の生き方とは何だろう。地域の活性化と発展に生きるところにこそ、私たちの人間らしい未来はあるのだという思いを強くした。