見出し画像

資本主義・社会主義・報徳主義 ――レーニン没後100年に思う――(『報徳』2024年12月号巻頭言より)

「東方からの光」

 1924年1月21日、世界で初めて社会主義国家を樹立したレーニンは、前年の3月に脳溢血で倒れ、再起不能のまま53歳で他界した。
 革命政権を打倒するため、フランスやドイツなど十数か国の干渉軍がソ連に侵入、日本もシベリアに出兵している。レーニンはそれを撃退し、「ネップ」と呼ばれる新経済政策を進めている最中だった。
 20世紀初頭、第一次世界大戦の只中の1917年に起きたロシア革命は、閉塞した西欧市民社会と大戦の惨禍に喘いでいたヨーロッパの人々に、「東方からの光」として大きな希望をもって迎えられた。
 レーニンの死後、ソ連はスターリンに引き継がれた。社会主義建設が夢を持って語られ、ナチス打倒には大きく貢献した。しかし1956年のフルシチョフによるスターリン批判以降、様々な問題が露呈される。
 1985年に始まるゴルバチョフ改革も功を奏せず、1991年のソ連邦崩壊となった。テレビ画面には、引き倒されるレーニン像が映し出されていた。

勝利した資本主義

 1989年、ベルリンの壁が崩壊し、それに続く東欧社会主義国とソ連邦の消滅によって、社会主義体制は大きく崩れ、勝利した資本主義が謳歌された。
 レーガノミックス、サッチャー主義、中曽根行革に象徴されるように、更なる経済合理主義が追求される。この資本主義の新自由主義的展開は、しかし、21世紀に入って大きな社会格差をもたらし、地球環境の変動まで引き起こしている。
 一億総中流といわれた日本も、成果主義、能力主義、数値主義の競争的環境の中で、日本型雇用は派遣労働に変わり、格差と貧困が常態となり、危機感をもって資本主義そのものが問われ始めている。
 レーニン死して100年。戦争と革命の20世紀を牽引し、資本主義に替わる新しい世界を打ち立てんとしたレーニンは、一体何を目指し、何が問題だったのだろうか。

レーニンの溌溂とした唯物論的な感性と思考

 レーニンは1870年にヴォルガ河上流のシンビルスクに生まれている。カザン大学で学生運動に加わって追放され、ペテルブルク大学の国家試験に合格して弁護士となる。革命党派に関係し、1897年に扇動罪で3年間のシベリアに流刑に処せられている。
 その後亡命してスイスを中心にヨーロッパで革命家として活動し、1903年にロンドンで開かれたロシア社会民主党大会では、多数派がボルシェビキ、少数派がメンシェビキと呼ばれたが、ボルシェビキの中心的指導者になっている。
 レーニンというと、唯物論的な思考の卓抜さがまず思い浮かぶ。私たちは日常、自分の観念を通して現実を見ている観念論者である。唯物論者は徹底的に現実に即し、そこから新しい認識を得て自分の観念を変革する。私たちの内部では常に観念論的観点と唯物論的観点が絡み合って闘争している。真理は唯物論的観点が勝利したとき現れる。
 認識の正しさは実践によって検証される。レーニンの凄さは、現実の正確な分析と、決起する日は明日ではない、明後日の3時だと政治判断する唯物論的な勘の卓抜さである。

ロシア革命

 1914年、第一次世界大戦が勃発する。この危機に際会して、レーニンの創造的な力が爆発した。世界大戦の原因を究明すべく、1916年に『帝国主義論』を執筆。資本主義の発達の最終段階がこのような事態を引き起こしたことを明らかにした。
 そして1917年に入り、変革の方途を『国家と革命』を書きながら探っていく。国家とは一部の人たちの専有物でしかなく、議会もその支配を隠す「いちじくの葉」でしかない。変革は、労働者・農民・市民・兵士たちによる協議会・ソビエトによって実現できることを明らかした。
 帝政ロシアの始めた戦争をどう止めるか。1917年4月、封印列車でスイスからペトログラートに帰国したレーニンは、国民に広がった厭戦、反戦意識を内乱に変えて戦争を終結させ、革命への展望を切り開いたのである。
 1917年10月、権力を掌握したレーニンは、ドイツとの講和を進める。感銘深いのは、ポーランド、フィンランド、バルト三国、アフガン、イラン、トルコなどの周辺諸国との不平等条約を自ら破棄し、民族自決による独立、平等、友好の関係を図ったことである。このようなことをした政治家は、世界史上一人もいないのではないだろうか。
 レーニンにとって悲劇は、独立させた周辺国がイギリスなどと組んで侵入し、「戦時共産主義」の軍事体制を敷かざるを得ないことだった。3年をかけて撃退するが、その後の社会主義建設のための時間は、レーニンに3年しか残されていなかった。

市場経済による社会主義建設

 1920年から始まった「ネップ」と呼ばれる新経済政策は、戦時共産主義の専制的計画経済から市場経済への全面的転換であった。
 マルクスが社会主義を想定したのは、資本主義が発達して近代的発展を遂げているイギリスであった。レーニンが対面しているのは、小農生産が主体で生産力は低く、無知、貧困、病気、野蛮の克服が大きな課題となっているロシアである。まず「ソビエト権力プラス全国の電化」が取り組まれる。
 レーニンは当初、持てる者と持たざる者を生み出す市場経済をマイナスに評価していた。しかし農民の余剰農産物の扱いをめぐって市場を活用する理を悟り、市場経済の中に社会主義的な施策を漸進的に進める実験に踏み出している。
 レーニンは進行する事態を頻繁に分析し、同志たちの見解を批判、修正しつつ前進する。各地の労働者・農民・市民・兵士たちのソビエトにも拠りつつ、まさに具体的状況を具体的に分析しつつ、徹底民主主義によって国を動かそうとしている姿が鮮烈である。
 「ネップ」による新しい展開は、しかし、レーニン死後は貫かれなかった。レーニンの水準で現状を生き生きと把握して理論化し、社会主義への創造的実践をする能力は、残された指導者たちにはなかったのである。
 彼らの水準といえば、マルクスやエンゲルスの言葉の切れ端を教条に使い、図式によってその観念を押し通す、唯物論とは無縁の、観念論的な社会主義建設だった。
 現状を無視した教条的な施策が上から貫ぬかれていく。生産手段の私的所有の廃止、商品市場経済の一掃。農業の全面的集団化、強行的な工業化、計画経済と国家と社会の一体化、等々。
 労働者、農民のためと言いながら、民主のかけらもない全体主義国家が出来ていった。レーニンが生きていれば、スターリンの社会主義は全くの偽物と断定しただろう。

スターリン書記長の解任要請

 最晩年のレーニンは、スターリンの大ロシア排外主義との「生死を賭けた闘争」を行っている。スターリンを「粗暴すぎる」と断じて、「もっと忍耐強く、もっと忠実で、もっと丁寧で、同志に対してもっと思いやりがあり、彼ほど気まぐれでない人物を」と書記長解任まで要請した。
 レーニンの懸念は、スターリンのもとで民族自決権が損なわれ、ソ連領域内で異民族抑圧の強まることである。スターリンが打ち出した「自治共和国化計画」は、ロシア以外の五つの独立共和国を自治共和国にしてロシア連邦に加盟させ、中央機関に従属させるもので、諸民族対等平等を損なうものだった。
 民族的不公正ほど、社会主義の大義、プロレタリアの連帯に反するものはない。民族問題に敏感に対応し「少数民族に対する譲歩とおだやかさの点で、行き過ぎる方が、行き過ぎないよりましである」とまで語っている。
 しかし「民族自決権」は、やがて「勤労者自決権」に変えられ、「社会主義共同体自決権」にまで変貌する。それは、周辺諸民族抑圧、戦後の東欧支配、ハンガリー事件、プラハの春の弾圧、アフガニスタン侵攻として現れる。こうしたソ連邦の所業をレーニンなら、犯罪国家と断罪するに違いない。

『三才報徳金毛録』と『哲学ノート』

 レーニンの思考と実践は、社会主義を目指しつつ徹底民主主義に貫かれている。それを支えるのは、事柄に即し、発展の層の下に現実を見る唯物論的な感性と思考である。レーニンのこの思考と実践は、「天地人の経文」を読み解かんとする二宮尊徳と強く共振している。
 尊徳は『三才報徳金毛録』で、宇宙の根源を「大極」とし、未分化な混沌から世界のあらゆるものが生成するとした。地・水・火・風・空を五行とし、これらの要素が天地人を生み、田畑を切り開き、生業をつくり、人倫を形成し、諸芸が生まれるとした。
 ここには神の影はなく、観念の跋扈もない。尊徳にとって生きるということは、この天地人を読み解き、世界を人間にふさわしい世界へと変革していくことであった。
 レーニンも、客観世界の運動を捉えるために『哲学ノート』においてヘーゲル哲学を研究し、写真的反映論を越え「人間の意識は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」という新しい到達点を得ている。
 レーニンの試みは未完に終わった。しかしレーニンは私たちに「唯物論的分析と唯物論的評価を実地に応用できる能力」をしっかり身につけなさい、そしてよりよい社会を目指しないと呼びかけている。それは尊徳の実践の魂でもある。

 日常生活の観点から見た場合、資本主義とは一体何だろうか。資本主義は個人主義を前提としている。それゆえ「自分のために生きるのがいかに楽しいか」が資本主義の本質といえるだろう。
 では社会主義とは何か。社会を軸に考えれば「人のために生きるのがどんなに楽しいか」というのが社会主義の本質といえようか。
 これらに対して報徳主義とは何か。自主独立を前提としたところの一円融合の考え方である。「自分のために徹底して生きれない人が、どうして人の為に生きれようか。人の為に徹底して生きれない人が、どうして自分のために生きれようか」――この統一に生きる思想である。
 いずれも人間の自己実現を目指している。戦後80年、戦後民主主義のもとで私たちは個人の解放と自立を目指した。これからの80年は、人と人とを繋ぐ新しい連帯の民主主義が要請されている。この新しい局面に、レーニンの想いも尊徳の魂も、骨太に生かしていきたいものである。

いいなと思ったら応援しよう!