白牡丹 というといえども 紅ほのか(2021年『報徳』7月号 巻頭言)
国民の良き自覚
ワクチン接種が世界的に始まり、コロナ・パンデミックも終息に向かうことが期待されている。しかしコロナは、細胞を持った細菌と違い、ウィルスである。細胞のある細菌は絶滅できても、生物といえないウィルスは絶滅できるのだろうか。アフター・コロナは、ウイズ・コロナの時代になるのかもしれない。
その視点からみれば、これまでの政府の対応は、ツボを外していたとしか言いようがない。なぜなら対応は、PCR検査を徹底して潜在患者も隔離すること、医療体制を充実すること、この二つに徹底して財政投入することに尽きているからである。それが出来なかったのは、検査体制の構築が行政権限の網によって阻害され、行財政改革と称して保健所や公立病院を減らして独法化する政策を続けていたからである。それを塗泥したまま施策を打ち出せば、どれもピント外れなものにならざるを得ない。
学校一斉休校や非常事態宣言も、本当に必要だったのだろうか。経済活動は可能な限り制約せず、自粛は、国民の自覚に俟つのが正しかったのではなかろうか。政府や自治体の呼びかけにどう応えるか。そこで民度が試される。国難に対する学びの中でこそ、国民意識も向上するのだと思う。
これからのウィズ・コロナの時代を考えれば、検査の徹底、医療体制の充実、国民の良き自覚、これにすべてがかかっているのではなかろうか。
距離をとる
マスク着用、密閉・密集・密接の三密を避けることが至上命令となり、ソーシャルディスタンスもいわれた。社会的距離だが、人間関係に疎遠をもたらさないように、最近はフィジカルディスタンスに言い換えられつつある。
明治八年から継続して、今月で一七四九回を数える本社常会も、限られた人数で行っている。二年に一度開かれる報徳社全国大会も、今年七月に開催予定だったが中止にせざるをえなくなった。
前回の全国大会では、日本アフラック創業者の大竹美喜さんに講演を頂き、その前が歴史学者の宮地正人さん、その前が「致知」編集長の藤尾秀昭さん、その前が静岡県知事を務めた石川嘉延さんで、出会いと縁の不思議さ素晴らしさについて、遠州の報徳運動と明治維新について、二宮尊徳の足跡について、そしてグローバル化時代の勤労・分度・推譲について、それぞれが話され、感銘深く思い出されるが、こうした機会が持てないのは何とも残念である。
全国大会で行う表彰も、参加した皆さんと壇上で共有できなくなった。尊徳は「善人はとかく表に出ずにひきこもるくせのあるもので、努めて引き出さなければ出てこない」、肥えた土も窪地にあって掘り出さないと表に出ないのだから、「善人を引き立て、肥し土を堀りださないといけない」と語っている。
人と土とを並べて引くところはいかにも尊徳らしいが、報徳の活動は地下水のごとくで、地域で活動している皆さんは、本当に目に見えない形で地域を支えている。それだけに尊徳は、顕彰し、意義を分かち合う大切さを説いた。
人の香りに出逢う、対面の活動がかなわないのは、大きな欠落感を伴うが、新しい可能性も生まれた。
個人社員オンライン研修会
オンラインは、今や会社や学校では日常になっている。今回の個人社員の研修会はオンラインで行われ、福岡、愛媛、東京、神奈川と二五名の参加をみた。本社に集まる形だと参加者は静岡に限られてしまうが、オンラインの威力で新しい広がりを持つことができた。
初めての人たちなので、自己紹介と意見の共有という形で進んだ。四国中央市の大西広志さんは、会社員をしながら地元で製茶もやり、地域活性化にむけて旬産旬消、地産地消、互産互消を追求中だという。
伊勢原市の米谷哲明さんは技術者で、分業と専門の中にいて、どうしても視野が狭くなり、報徳による広がりを期待しており、会社にいる韓国や中国の人たちにも報徳について語りたいが、さてどう話したらよいか思案中とのこと。
福岡市の中村信之さんは、IT関係で起業されたが、ITもAIもあくまでも手段、鋤や鎌と同じで、人間の感性と判断力に勝るものはないことを強調された。
東京の林明さんは病気を抱えつつ二宮尊徳全集にアタック中で、桜町仕法を評価した「前代未聞、後代無辺」の言葉に出会って、改めて尊徳への思いを深めているという。
一緒に『大学』を学んでいる愛媛の上田来喜さんと青木晴美さんは、「日に新た、日々に新たに」が魂に触れて、更に敷衍して考えながら、多難な仕事に奮闘中とのこと。
掛川市の戸塚久美子さんは、お嫁に来て半世紀、部屋に掛かった「無尽蔵」の額を毎日見ていた功徳なのか、倉真報徳社の建物を活用して障がい者の就労支援と創作絵本活動に専心中とのこと。尊徳の「天つ日の恵みつみおく無尽蔵、鍬でほり出せ鎌でかりとれ」からとった言葉で、大講堂には伊藤博文の「無尽蔵」の大書がある。
全部紹介できないのが残念だが、皆さん、これからの時代は今までの物差しでは測れない、という問題意識で貫かれていた。
日常生活と自己変革
夢、希望、喜び、悲しみ、恨みつらみも含めて、その総体としての私たちの日々の生活は進んでいく。そもそも日常生活とは一体何なのだろう。どんな些細で卑小なことでも、それは人間の歴史の総体につながっている。そう考えると、日常生活とは、人類のこれまでの経験や歴史の総体を個人の場で切り取ったもの、と言い換えらるのではないか。
尊徳の実践も、シェイクスピアが描いた悲劇や喜劇も、そこへと通ずる萌芽とエレメントが、私たちの日々の生活のなかには一杯つまっているからだ。
このような巨視的認識は、尊徳の言う「遠きをはかる」ことへと私たちを誘う。と同時に私たちの日々の生活にも反省を迫る。
豊富な情報と知識、しかしそれがあるからと言って文化が高いというわけではない。反芻されて知恵になり、生活のスタイルになって初めて文化だからだ。その意味で私たちは、それぞれが文化を持ち、文化水準を持っている。
民度ということを最初に述べた。これは文化の水準と関わってくる。現在、その変革が求められているのだ。
生き方を変える、生活スタイルを変える、文化を変えるといっても、意志すればできるほど簡単なことではない。毎日「無尽蔵」の額を見て、五十年見続けてやっと乗り移ったのかもしれないと感ずる戸塚さんのいうところに真実があるのかもしれない。
「白牡丹 というといえども 紅ほのか」――高浜虚子の句である。心にいろいろな刻印がおされる。消えてしまうものも多い。しみ込んでくるものもある。そうして形成されたた総体が己の文化であり、文化水準である。時間の経過とともに本質的な変化を遂げる。それを虚子は「紅ほのか」と吟じた。
政治、経済、国際関係、自然関係などもろもろに、新しい在り方が求められている。これからのウィズコロナの時代、私たち一人一人が「紅ほのか」になることが求められていよう。
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