「報徳いもこじ農楽塾」始まる(『報徳』2024年5月号巻頭言より)
耕作放棄地の爆発的増大
「私の所はあと10年は持つと思うが、鷲山さんの地区は五年も経つと農業をやる人がいなくなって、田んぼや畑は、イノシシの運動場、マムシの巣になりますよ」。
IBMを退職された後、隣村に帰って農業法人で頑張っている飯田政明さんから、かねてより、このような話を聞いていた。農業をやる人が少なくなり、耕作放棄地が爆発的に増え、田園風景も竹藪に変わり、地域コミュニティーも崩れていく恐れがあるというのである。
地域おこしを旨とする「報徳」の出番でしょう、と飯田さんは言いたかったのかもしれない。
農業後継者は減少の一途をたどり、耕作放棄地が増大している。食料自給率は37%で、先進諸国の中で最低である。こんな国はない。そこにロシア・ウクライナ戦争で「世界食糧危機」が現実味を帯び始めた。食料の6割以上を私たちは海外に依存しているのである。危機的状況といえよう。
農業基本法
農業政策を振り返ってみると、『農業基本法』が初めて制定されたのは1961年である。食料自給率は79%で、高度経済成長を見据えつつ、「農業の生産性向上」「農家の所得向上」「高い付加価値の農産物へのシフト」「食糧管理制度による価格維持政策の見直し」が目指された。
1999年に改訂されたが、これは1993年の「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)のウルグアイラウンドで「農産物でも関税をはじめとする国境措置を極力排除」が打ち出され、それに対応するものであった。「食料の安定供給」「農業の多方面化」「農業の持続的発展」「食料自給率の向上」が目指された。
しかし折角の目標も、実体を伴わないままに終わってしまったのだろうか。ここ10年を見ても、農業従事者は205万人から110万人と、100万人も減っている。高齢化が進み、後継の農業者が育っていない。
こうした事態に対して、食料危機は国内で一度もないし、国民の食生活は豊かになっている、農業従事者が減っても問題ない、零細農家が減って却って合理化されよかった、という評価がある。しかし話はそんな単純ではないし、1993年のようなコメ不足でタイ米を食べるような事態がいつ起こらないとも限らないのが現状だろう。
現在、3度目の『食料・農業・農村基本法』改定が国会で議論されている。「食料安全保障の抜本的な強化」「環境と調和のとれた産業への転換」「人口減少下における生産水準の維持・発展と地域コミュニティーの維持」などが掲げられている。
食料自給率と輸入農産物の安定的確保が並列されているのには首を傾げたが、大規模経営など多様な農業経営を目指し、輸出農産物の強化、先端的スマート技術の活用など、異論はない。しかし高齢化対応、耕作放棄地の増大、食えない農業、農業後継者をどうするかの焦眉の対策は、曖昧模糊としたままである。
例えば、1俵のお米を作るのに1万5000円かかるのに1万円でしか売れない現実がある。近隣でも最近、10町歩の稲作農家が倒産した。食べていけないのである。若者の呼び込みが喫緊の課題なのに、食える農業になっていない。どこに原因があるのだろうか。
「工業立国」と「農業立国」の一円融合
田舎に育った者の常として、田植え、稲刈り、麦踏、茶摘み、ミカンの手入れ、山の下狩りと、親を手伝って農作業をするのは当たり前で、その厳しさも楽しさも十分体験している。
そこでつくづく思い知ったのは、農業労働をお金に変える大変さである。みかんが奨励された時期があり、父と植えて刻苦の五年後に収穫出来るようになったが、軽トラ一杯に積んだミカンはジュースにするとかで5千円にもならなかった。
考えてみると、1平方メートルに稲や麦やミカンが植わっていても1万円にもならない。しかし工場があれば何十万円、何百万円になる。この差異を、よく思ったものである。農業を考えるうえで、ここに立脚点を置くことは、大変重要ではないだろうか。
歴然とした差が存在しているのだから、同じ土俵で考えるのは間違いで、工業立国で得たお金は、農業立国のために回すのが自然の理であろう。回し方はいろいろあるが、基本は主要農産物を国家が高く買い、消費者には安く売る、その差額は国家が引き受けるという体制である。こうして初めて工業立国と農業立国の本当のバランスが取れるのである。
「補助金漬けにして農家を甘やかしている」「過保護だから競争力がなくなった」「競争にさらせば日本農業は強くなる」「各国の農業はそれで伸びている」といった論調が日本では主流である。
しかし事態は真逆で、政府による農産物の買い上げや、価格支援を廃止した先進国は日本だけである。欧米では、政府による補助金で農業を支援し、100%近くの補助金の国もあるという。関税自由化が強く求められ、アメリカの農産物が日本に大量に入っているが、アメリカの農家支援、そして消費者の安定的な食料確保の政策は、極めて充実している。
日本農業衰退の二つの原因
ウルグアイラウンド以降、そしてTPPによって、日本に入る大半の農産物の関税率は低い水準にある。かつて牛肉の自由化によって、安いアメリカの牛肉が大量に輸入され、消費者は喜んだが、近隣の畜産農家は次々に廃業に追い込まれた。こうした在り方が果たして正しいのか、安ければ海外依存でいいのか、強い疑念が残った。
そこに牛の海綿脳の問題が起こった。輸入農産物の安全性は全く顧慮されていないことが露呈された。現在でも、アメリカから大量に入っている遺伝子組み換えの農産物の安全性をどう評価するかの問題がある。
こうした経緯を考えると、ウルグアイラウンド以降、TPPなどによって、アメリカ主導の政策に全く同調した
「制約なき輸入自由化」の国家政策が、日本農業衰退の第一の原因となっていることがわかる。
車などの工業製品を買ってもらう見返りに、農業を犠牲にしている構図である。その分、国家は日本農業を守る施策をすべきなのだが、輸入農産物が売れなくなるとよくないのでそうした措置はしていない。
この動向に拍車をかけるように、「農家を甘えさせている」と理由づけがされて補助金がカットされ続けている。農業の本源から発する価格政策、所得確保政策を欠いたまま、日本農業は全くの「市場原理まかせ」になっていることが農業衰退の二つ目の原因である。
「報徳いもこじ農楽塾」
こうした危機的状況のなかで、農業問題を足元から解決すべく、昨秋から勉強会を始めた。農業者、地権者、消費者、こども園、農協、市役所、市民活動家など、多彩な皆さんが集まり、三月の「報徳いもこじ農楽塾」となった。昨年11月の「実践研修会」での発言も含め、集約された意見から、これからの活動の原資が見い出せたらと思う。
「荒れ地は荒れ地の力でよみがえる」
耕作放棄地のみならず、地域に目を向ければ、空き店舗、空き家、廃校、利用されていない公共施設など、現代の荒れ地がたくさんある。尊徳の言葉通り、まさに報徳の出番である。
農業は、国民の食料自給を担っている。食料と農地を守っているだけではない。地域を担い、地域の風景も、地域のコミュニティも、地域の生態系も守っている。
私たちの「いもこじ」から、荒れ地を黄金の穂波に変える、様々な「地域活用モデル」を生み出して行けたらと思う。