『報徳の開拓者 安居院義道』をめぐるエピソード(『報徳』2023年12月号巻頭言より)
安居院義道庄七
安居院義道庄七は、江戸の末期に遠州に報徳を伝え、維新後に全国展開になっていく報徳社運動の基盤をつくった人ある。ドラマに満ちた人生で、神奈川県秦野の修験者の家に生まれ、米屋に婿に入ったが、晩年に相場で破産。ただで金を貸してくれる人が桜町に居ると尊徳を訪ねるが相手にされず、風呂番を二十日間程して周りの人たちから報徳の考え方を知り、秦野に帰ると「元値商い」で家を立て直す。万家を興したい欲求が沸き起こり、家をゆずって伊勢講に加わり東海道を行き来する中で、浜松の下石田、掛川の倉真に報徳の教えを伝えた。
現代語風に
『報徳の開拓者 安居院義道』は、安居院についての唯一の実証的著作なのだが、古い書き方をしていて大変読みにくい。本書の意義を認めて、地福進一さんが現代語に直して下さった。祖父の著作の紹介で恐縮ですが、ご寛容下さい。
岡田良一郎の薫陶を受けて、祖父・恭平が報徳社に関わったのは、明治の終わり頃である。安居院は、文久三年・一八六三年に他界しているから、没後五十年ほど経っている。維新の大変革期の中で人々の意識の変容が激しく、安居院は忘れられた存在になっていた。祖父は安居院に関心を持ったものの、資料も少なく、聞き書きも難しくなっていた。集めてはみたものの「内容として貧弱であった」と語っている。
渾身の執筆
晩年、病床にあった祖父は、昭和二十八年に八十二歳を迎える。足すと丁度ゼロだから、この年が没年になる断じて、「空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起こして、おいぼれの最後の努力を試みた次第である」。発行は、昭和二十八年初秋である。
心血を注いだ原稿が本に成るというので、出来上がるのを今や遅しと待っていたところ、本を手にして愕然とした。誤植の多さに驚いたのである。気を取り直して『お詫びまでに』と正誤表を作るが、憮然の気持ちは消えなかったようである。
意に満たない出版になってしまったが、学会で評価されることになる。奈良本辰也の岩波新書『二宮尊徳』では、参考文献の項に載っていただけでなく、「あとがき」に「いろいろ参考になったのは、広瀬豊氏の『富田高慶』と鷲山恭平氏の『安居院義道』である」と特記されている。
奈良本はここで安居院義道を大変高く評価している。「二宮尊徳の教えは、報徳社の運動とともに育っていった。たとえ政府が、彼に従四位の位をさずけようとも、その大日本報徳社などの活動がなかったならば、彼もしょせんは歴史上の人物にすぎない。そのころ、明治政府によって贈位された諸賢と同じように、その従四位の位のまま消えてしまっているはずだ。しかし、他のいかなる人物にもまして尊徳は生きている。それが大日本報徳社であることは繰り返すまでもないが、それを結社せしめるに力あったものこそ安居院庄七であった」
祖父は既に他界していたが、安居院への高い評価に満足した違いない。
加茂元照さんを介して
掛川で菖蒲園を経営し「花鳥文化」を牽引されている加茂元照さんは、立教大学の井上晴丸の下で歴史学を勉強していた。明治期の日本経済史に関心を持ち、卒業論文に報徳社を取り上げようと思って、祖父を訪れたという。
話を聞くのが楽しみになって、掛川から土方村までよく通うことになった。ちょうど『安居院義道』の執筆中で、「原稿を見せていただいたり、翌年に上梓されたときには、先生から直接頂戴した」。それを加茂さんは、井上晴丸や法政大学の宇佐美誠次郎などの研究者に配る。
「井上、宇佐美の両先生は、当時、私の家に逗留して日本農業発達史の原稿を書いておられたが、『安居院義道』を読まれて非常な感銘を受けられた。その頃はいわゆる日本資本主義論争と呼ばれる激しい論争が、歴史、経済学者の間で繰り広げられており、各派とも仮説の持論の防衛、展開に憂き身をやつしていた。仮説を実証する基本資料の不足は決定的であった。そんな折に鷲山先生の史実に基づく新研究が、ポッカリ空いた穴を埋めるようなタイミングで発表されたわけである。ここにこの本の持つ奥行きの深さがある」
読んでみると淡々とした記録
地福さんの現代語訳で『安居院義道』を読んでみる。しかし、研究者たちが指摘したような有難みは全くわからない。資料と聞き書きを動員した、何の変哲もない普通の評伝である。散逸を免れて、安居院の道歌がいろいろ収集されているのが特徴であろうか。何故この本が高く評価されたのか、さっぱりわからないのである。
おそらく安居院庄七の活動自体が掘り起こされた意義が大変大きかったのだろう。民衆の立場に立ち、民衆と共に活動をした人々の事績は、記録としてほとんど残らない。その隘路を崩して祖父は安居院義道を浮かび上らせた。歴史をつくるのは、名の残っている人たちではない、民衆であり、人民であり、国民なのだという、戦後歴史学の新しい探求に、この本がぴったりと答を出したのだと思う。
尊徳と義道
安居院庄七について奈良本は、二宮尊徳と対比しつつ次のように述べている。「尊徳のやり方と庄七のやり方の間にはかなりの差があった。それは、一つには尊徳の方法がつねに領主の背景をもち、上から教訓として行われたに対し、庄七のは財産も権力も何もないところから組織していったということの差異からきているであろう」として、安居院が、百姓同士の結びつきを大切にし、お庚申さまのような伝統や気風に即しつつ、報徳を媒介にして団結し、農民たちの力量を掘り起こしていったことを挙げている。
第二の違いは、「商品生産についての考え方」で、尊徳は米と麦作をもっぱらにしたが、庄七は製茶を教え、養蚕をすすめ、それが今の静岡地方の製茶業に発展した。
第三に「彼が新しい農業技術の紹介者であった」。関西の進んだ技術である稲の正条植、苗代の薄蒔き短冊田、麦の十分な手入れなどの技術向上はすべて庄七によって紹介されたのである。
義道と良一郎
加茂さんは別の視角から次のように論じている。「岡田佐平治と息子良一郎は、義道や尊徳から報徳の理論を学び、掛川を中心に報徳社運動を展開する。しかし後に国政に深く参画することによって、明治、大正、昭和を通じて、その時々の国家的要請、施策と合致した形が目立った。これは、二宮尊徳が後半生を幕臣として藩政改革に参画した性格を受け継いだものと言える」
尊徳から「遠州の小僧」と可愛がられた良一郎は、世襲の庄屋である。報徳運動もその枠組みを出なかった。「報徳の教えの内、藩政改革コンサルタントとしての性格を受け止め、庶民自身のための近代思想としては、結局充分に活用できなかった」と加茂さんは指摘する。
それゆえ明治中期になると内部批判が出始め、森報徳社は岡田流の報徳を批判したため、「以後、報徳の二字を用いるべからず」と除名され、「森報本社」として改名、活動することになる。
岡田良一郎は、資金貸付所を創り、日本の最初の信用組合である掛川信用金庫になるなど、「金融資本的を方向」を打ち出した。それに対して森報本社は、「産業主義的な方向」で、これは「安居院義道の指導した方向」であったと加茂さんは語る。
この中から、近代産業史に有名な台湾製糖の鈴木藤三郎が出るのである。そしてこの方向が「浜松地方にホンダ、スズキ、ヤマハなどの新興国際企業の発展を促していく思想の基盤となった」と加茂さんは分析している。
七十年を経て
『安居院義道』について、加茂さんは次のように語る。「岡田家三代と歩みを共にされた先生は、報徳主流の要人であった。しかし、このような鋭い批判を内蔵する著作を敢えて書かれた。それは丁度、王党派であったにもかかわらず、資本主義の勃興を見抜いたバルザックの〈リアリズムの勝利〉に比すべき、鷲山恭平先生の学問精神の発露であったと言い得よう」。
祖父は著書の「はしがき」で「今、安居院翁伝を出版せんとする、あるいは〈落花深きところ、南朝を語る〉の評もあるかもしれぬ」「しかれども、私は敢えてこの伝を編纂する、誠にやむをえざるもの、あればなり」と語っている。
祖父の思いは、報われたというべきであろう。「この労作が見事に日本の近代史の欠けていた部分を補い、正しい評価に資したことは、多くの近代史家の論調が、この本の出版を境にしてハッキリ違って来ている点からみても明らかである」と加茂さんは語る。
奈良本辰也は『二宮尊徳』の「あとがき」の最後に「井上晴丸氏の好意も忘れはしない。記して、感謝の意をあらわしたいと思う」と書かれている。その背後には、祖父の著作を井上晴丸に紹介した加茂さんの姿が二重写しになっている。
そして今回、七十年ぶりに『安居院義道』が現代語訳で読めるようになった。「人民の勤耕」の立場に生きた安居院義道の思想と実践は、現代に生きる私たち市民が、自立的・主体的に現代の諸課題と対峙しようとするとき、様々な示唆と励ましを与えるものとなるのではないだろうか。