地域活動の生きたデータ『農林業センサス』の「農業集落調査」の継続を(『報徳』2023年3月号巻頭言より)
「農業集落調査」の廃止
農水省は、全農林関係者を対象に、五年に一度『農林業センサス』と呼ばれる調査を実施している。「農業集落調査」はその一部である。この調査は一九五五年に始められたが、それが廃止されようとしている。
「農業集落調査」の対象は、全国の十五万ある農村集落である。そのうち、現在、約十四万集落をカバーしている。農地の現状、用水路や排水路、ため池、入会林野といった地域農村資源の実態と保全の活動、各集落で開かれる祭りや行事、「寄り合い」の頻度や議題までつぶさに調査されてきた。農村の生きた動向を知る上で決定的ともいえる重要な調査である。
ところが農水省は、二〇二五年に実施が予定されている次回のセンサス調査について、「農業集落調査」の廃止方針を表明した。
市町村の協力が得られない
廃止の理由を農水省は「調査実施が困難になってきた」ことを挙げている。調査は、集落の実情をよく知る自治会長など地域に精通している人たちを把握し、そこから情報収集を行ってきた。農林省の地方農政局は、各市町村と連絡を取りつつ、地域に詳しい人を紹介してもらい、そこから情報提供を受けていたのである。
ところが二〇二〇年の調査では、対象となる十四万世帯のうち三十五%に当たる五万集落について、四五十の市町村から、個人情報保護条例などを理由に、情報提供を断られたという。
そこで農政局の職員は、農協などに協力を頼んで地元をよく知っている人を紹介してもらって聞き取りをしたが、六千集落は情報が得られず、集落まで出向いて調査を行った。しかし調査に当たった職員からは、「この形ではもう無理」という声が上がったと言う。
調査結果は、農水省の交付金の配布などに使われているが、農業集落調査によらなくても、他のデータで準用可能と農林省は考え、マンパワーがかけられない以上、廃止するしかないという結論になったという。
農村コミュ二ティーに関する国の唯一つの統計調査
これに対して、「政策立案に重要なデータ」「国土交通省の過疎地域対策や内閣府の防災対策にも活用されている」「農水省自身が調査の意義を理解していない」などの強い反対意見が研究者たちから上がった。農業や農業経済学の専門家のみならず、歴史、地理、経済、社会学、工学の研究者、そして各学会からも基本データを廃止することへの強い批判が表明された。
この批判を受けて野村哲郎農相は「実質的に調査を継続することにした。重要情報と提言されており、完全に廃止するわけにはいかない」と語った。しかし代替案として出されたのは、『農林業センサス』の「農林業経営体調査」の質問事項にその一部を加えるという形のものだった。これでは経営体に限定された調査になってしまい、全数調査ではなくなってしまう。「統計の連続性がなくなる」「精度が落ちる」と懸念は払拭されないままである。
反対署名を呼び掛けた日本村落史を研究する戸石七生さんは、毎日新聞の『発言』の欄で、「デジタルトランスフォーメーション(DX)の時代を迎えた今こそ、その礎となるデータを途切れなく収集することが、国土を守り、国民生活の質を向上させるはずだ」と、次のように述べている。
「農水省が主要な調査対象とする農家や農業法人も、水路の維持など農業集落ぐるみの支援なしには農業ができないケースがほとんどだ。また、農水省が整備している〈地域の農業を見て・知って・活かすデータベース〉の現在の最大の利点は、集会や農業集落の管理する財産等のデータでコミュニティーの姿を継続的に反映していることだ」として、全数調査の意義を訴え、住民の意思決定の様子まで反映している「農村集落調査」の貴重な重要性を明らかにして、従来通りの実施を要望している。
生活改良普及員から
本誌で「食は命の恩送りー次世代に繋ぐ郷土の料理―」を担当している岡本伸子さんは、静岡県の生活改良普及員を長く務められた。改良普及員にとって農村の現場に入って問題点の把握や改善計画を立てるためには、『農林業センサス』の「農村集落調査」は、なくてはならない基礎データだったという。
「集落カード」と呼んでいて、指導地域に入るには、まず役場の農林課に行ってコピーを入手する。個人情報保護法施行以後はコピーは不可になったが、そのカードで、集落の農業・農家の実情を把握し、情報を頭にいれ、各戸の相談に応じ、座談会に臨んだ。このツールは必要不可欠なものだった。
様々な記事の執筆や報告書も、改良普及員は求められる。基礎データがないと正確な実態と活動の報告にならない。「農村集落調査」は生活改良普及員にとっても仕事の命綱なのである。後に農林大学校で教えた時にも、農村活性化の授業で集落を選定して現地踏査をする際に、「集落カード」は欠かせなかった。
岡本さんは、生活改良普及員としての体験や、体得した生活文化、郷土料理を若い人たちに伝えたいと、「遠州土方くらし塾」を始められた。「農村集落調査」から得た認識が、教える際に役に立っていることは言うまでもない。
アメリカ・センサスの研究例
手元に今、菅(七戸)美弥さんの『アメリカ・センサスと〈人種〉をめぐる境界』がある。アメリカにおけるマイノリティーの実態と課題をセンサスの個表から割り出した、六百頁の大著である。この本でセンサスという言葉を初めて知り、センサスがこのように活用され、研究されているのに眼を見張った。
アメリカ・センサスは、一七九〇年の第一回から十年ごと実施されている。基本的な調査項目として、居住地、個人名、年齢、性別、肌の色などで始まり、連邦下院議員の議席配分に使われたという。分類項目には「自由白人」と「奴隷」があったり、移民の流入によって「チャイニーズ」「ジャパニーズ」の分類項目ができたりと、時代を大きく反映している。
一八六〇年センサスに、初めて日本人が登場する。水夫八人が合衆国船員病院に入院した記録である。何と、勝海舟や福沢諭吉と共に渡米した咸臨丸の水夫たちだという。センサスは、今日必要とする問題解決を、より的確にするために追尋するデータとして重要であるのみならず、このように史料に残らないような人々を、歴史の奥から浮かび上がらせ、光を当てる、総合的な深い力をもっているのである。
環境問題や景観保全の施策にも
行政改革によって選択と集中、費用対効果などがいわれ、統計調査の実務を担う現場もスリム化され、人手不足が深刻である。「農村集落調査」は多くの調査員に支えられ、こうした繋がりがまた地域コミュニティーを支える力になってきた。
人口減も相俟って、私たちは今大きな転換期を迎えている。求められていることは、バラバラに進むのではなく、有機的な人と人との繋がりを新しく創造していくことである。
世界的な食糧不足がいわれ、日本の食料自給率では国民は危険にさらされると警告されている。
「農こそ国の基い」である。食料危機の到来で、農業の意義が大きく評価される時代が到来した。自然災害、環境問題、景観保全も、深刻な課題を負っている。
まずは各市町村に「農村集落調査」の意義を理解してもらい、調査協力体制をつくっていくことが求められよう。そして政府や自治体には、農業政策だけでなく、自然や環境や景観も含めた長期的な視野に立った施策立案が切望される。「農村集落調査」はその基盤である。