ふと思ったこと。(2024.05.20)


温故知新

温故知新おんこちしん」という言葉がある。最近聞いたこの言葉がなぜか頭に引っかかり、今日も友人たちに話をしていた。

「温故知新」
昔のことを調べて、そこから新しい知識や見解を得ること。ふるきを訪ねて、新しきを知る。

そんな言葉を自分の頭の片隅に置きながら、これからやることを考える。

少しだけ話すと、今とある空き店舗を借りて、拠点をつくろうと考えている。

ぼくは兼ねてから、AKITA"KARA"というプロジェクトをやっていたので、そこで出会った人たちが集うような場所をつくれたら…そんなイメージだった。

ただ考えれば考えるほど、それだけで良いのか…?と、思うようになり、自分たちが街の中で拠点を持つことの責任?のようなものが立ち上がってきた。

責任とは何か。やっぱり街の1階に場を持つということは、その街の風景になる。ぼくは秋田が地元だから、街を歩くと風景を思い出す。「あぁ、あそこにはアレがあったな。今は無くなったのかな。」とか。

ぼくらがつくる場は、誰かにとってそういう風景になるかもしれない。

そして誰かの大切だった、好きだった風景を変えてしまったものかもしれない。なんかそんなことが頭をよぎる。

そうなってくると、やはり色々なことを考えて、遠回りかもしれないけど、色々なプロジェクトはやった方が良さそう…。

街の歴史を知ることはもちろん、地域の人たちとも話す。ここでの暮らしや日々のこと、どんな場や拠点があると、嬉しいか。

みんなで考える場にしたい。みんなで、この土地やこの場所のことを。これからつくる拠点のことを。

そんなことをふと考えていたら、宮本常一という民俗学者を思い出した。彼の書いた「忘れられた日本人」という本、名作だった。

そこで出てきた「寄り合い」について書かれたところ。あれは面白かった。どうしてか、それを思い出した。

『寄り合い』
日本の中世以降、郷村制における村の協議機関のことをいう。寺社や村役人の家で農事の規則や年貢の負担、村の経費の決算などが話し合われた。

みんなで決めること。話し合いをして。だってここは自分たちの住む街で、暮らす場所なんだから。ある種の自主性?自治的なもの。

それが、もしかしたら今の時代に必要なのかもしれない…そんなことを思い、考える。

みんなが責任を社会や世の中に預けてしまう流れがある中で、それを引き受ける。自分の街のことをみんなで、自分もその一員として考える。

そしてこの土地で生きてきた人にリスペクトを持ち、今ここで暮らしている人たちの暮らしが少しでも豊かになるように、考えていけると良いのかもしれない。

そんなことをふと思ったので。温故知新という言葉を添えて、記録しておきます。では、おやすみなさい~。


AKITA"KARA"について

ぼくが運営しているAKITA"KARA"|アキタカラというプロジェクトについて書かれているnoteです。ぜひ読んでみてください!

5/25(土)は歩く〜(あるく「から」)!

5/25に"〜《から》シリーズ第5弾となる、歩く〜|からを開催します。みんなで秋田の街を歩きながら、自分の暮らしている街を捉えなおしましょう。お申込みはpeatixから!

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