当事者と自分について。
職業柄、何か困りごとを抱えている人がすぐそばにいる。「死にたい」という言葉も、毎週のように聞く。
「現実を見よう」「社会のことを知ろう」
そう思って見てきたことを、ぼくはこの一年間、ずっと自分の心に閉じつづけたように思う。
自分のなかで、自分だけで、それらを受け止めようとしていたと思う。
でもふと思う。その困りごとを抱えている人の課題や生きづらさを、ぼくは解決できるのか?ぼくら福祉の現場で働く人だけで、なくすことができるのか?
正直のところ、難しいと思う。少なくても、”ぼくたちだけ”では、難しいと思う。
でも、ぼくのなかに自分の見てきた現実は”公開してはいけないもの”、”外に開いてはいけない何か”という意識があったように思う。それがなぜできたかはわからない。
さまざまな現実に相対すなかで、「なんとかしたい」という気持ちが膨らんでいた。どうにかしたい、でもどうにもならない社会や地域から、ぼく自身少し逃げていた節もあると思う。
でも今考えると、それを「ぼくらだけで解決するもの」としていたから重く大きな課題になっていたのではないか?
それらを開いて、みんなで解決する課題としたら、色々な選択肢や可能性が見えてくるのではないか?
そう思ったりする。
ぼくら当事者と相対す人たちが、当事者を大切に思っていること、専門職として向き合うのは「私たちだけ」と捉えていたことは、どうなんだろう?と、自分に問い返す。
ぼくがしたいことは「社会をより良くすること」で、目の前の人がよりよく暮らしてもらうために福祉の仕事をしている。それなのに、ぼく自身だけでその課題を受け止め、背負うことは、本当に目指している未来に繋がっているのか?と、考える。
きっと違うと思う。
大変なことこそ、辛い現実こそ、逃げたくなる今こそ、それをゆっくり開いて、みんなで共有ていくことが大切だと思う。
もちろん重い課題をドンと伝えるのではなくて、触れやすいように、関わりやすいようにデザインすること、編集することも大事。それらがないと、そもそも誰も近寄ってくれないから。
部外者や第三者。それらについてもう一度考えていきたい。元々部外者だったぼくが、当事者に近い存在になったからこそ、見えることがきっとあると思う。
そんなことをいわきの旅を終え、一日経って考えた。元々寝ずにいわきに行き、寝ずにツアーを終えて、寝ずに仕事に行った。昨日は久しぶりにゆっくり寝て、頭がスッキリした今日、そんなことを思った。
共事者だったぼくに投げられた槍は、ぼくの奥底に突き刺さったし、もちろんそれによって気づけたこと、反省したこともたくさんあった。
でもぼくは一年働いて、結局当事者側なのか、右側なのか、そういったものには行けなかった。どこか違和感を感じながらずっとこの領域の仕事に向き合ってしまっていたと思う。
もう一度「共事者」になっても良いのではないか。むしろ、今の自分だからできることがあるんじゃないか、そんなことを思う。
真ん中に立つのは難しい。真ん中に立てば「右に来い」「左に来い」とどちらからも言われてしまうから。それでも真ん中に立ちたい。ぼくはもう一度、それを大切にしたい。
そんなことを思う。
見た景色、考えたこと、共に過ごした時間。簡単に言葉にはならない経験だった。それらを大切にしながら、ぼくはまた、ぼくが暮らすこの地域で、おもしろくてグレーゾーンのことをやっていこう。
自分の知らない自分に出会うために。