秋田に戻り、一年が経ちました。
日々が過ぎていく。4月を過ぎて、5月を過ぎて、6月を過ぎようとしている。こうやって日々は淡々と過ぎていく。
土地とは何なんだろう。住む場所とは何なんだろう。秋田に戻り一年。ぼくにとっては土地の変化、暮らす場所の変化は、あまり変化を感じないものだったのかもしれない。
この時間になり、文章を書くか本を読む。殿(猫)は網戸越しの外をじっと眺める。それも北海道にいた頃と一緒。
朝になるとご高齢の方の自宅に行くことも、それが終わって友達と色々話すことも、りまさんと電話することも、変わらないことが多い。ただそれらを、ぼくは秋田という土地でしている。そんくらいなのかな。
社会を知ろうと思った一年。なんとなく、そう思っていた一年が過ぎた。そして、今振り返ると、自我というものと自分というものを離そうとした一年だったとも思う。
そういう意味では、外部の刺激があまり強くない秋田という土地は、ぼくに合っていたのかもしれない。じっくり自分がどう生きていくのかを考えることができたと思う。
じゃあその答えが一年で出たかというと、もちろんそんなことはなく。ぼくは今日ものらりくらり、何か大切な決断から逃げるように、忘れるように日々を生きている。
朝から夜まで色々な方のご自宅を周り、掃除やら買い物やらをして、そして夜になると友達と色々語る。そんな変哲もない日々を、今日も送るし、ぼく自身はそれ以上を求めてはいない。
今の自分にできることをする。身の丈に合ったことする。
社会を変えるんじゃなくて、社会を知る。社会を解釈するために、勉強をする。
自分が見えているものだけを「社会」や「地域」と括らない。
全体を見る。俯瞰して立つ。そして、真ん中に居る。
盲目に本を読むなかで、そんな考え方の背中を押してくれる本にたくさん出会えた。
「わからないことは、わからないままほっとけばいい」
堀田善衛さんの考え方に救われた。
そして日本人とは何か、日本文化とは何か、日本文学とは何か。
ここにきて、加藤周一さんと宮沢賢治さんに好奇心をくすぐられた。
そんなぼくの好奇心や大切な時間を奪うように、悶々としている、モヤモヤしている友人と再会する。新しい出会いも起こる。
そんな友達がほっとおけなくなって、色々語るうちに、気づいたら自分がおもしろくなっていることに気づく。そして、みんなで何かやろうとはじめてしまう。
何かが生まれる時やはじまる時は、いつもそんなもんだ。半分貰い事故みたいなもんだと思う。
行き当たりばったりだった一年。先読みせず、今を生きる。今「ここ」を生きる。そうやって生きてきたなぁ。
特段もがいたわけでもなく、「俺は大変だった!」とも思わない。みんな大変、そこそこに。だからぼくも、この社会で生きているんだから、社会のために、人のために、生きていきたいと思う。これからも、一日一日、一所懸命に。